「音楽史上最悪のペテン師」の烙印

もちろん、シンドラーが実際にベートーヴェンからこれらの話を聞いた可能性はゼロではない。だが、シンドラーの改竄行為が明らかになった以上、こうした証言を頭から信じることは不可能になってしまった。それはベートーヴェン像の崩壊に等しかった。彼はいまや、百年以上にわたって人びとをだまし続けた「音楽史上最悪のペテン師」の烙印を押されるに至った。

しかし、シンドラーが行った改竄を、彼自身の自己顕示欲や嫉妬の産物として片付けてしまっていいものだろうか。というのも、彼が行った故意の加筆には、よくよく見ると個人的な動機とは考えにくいものも含まれているからだ。

たとえばシンドラーは、会話帳にセリフを書き入れるにとどまらず、自分以外の人が書いたよからぬ書き込みを黒塗りし、事実を隠蔽したりもしている。

たとえば、1820年1月にベートーヴェンの友人ヨーゼフ・カール・ベルナルトが書きつけた「私の妻と寝ませんか? 冷えますからねえ」という言葉には、上から線を引いて判読を妨げようとした痕跡がある。シンドラーがやった可能性が高い。いったい何のために。

「不滅の恋人」をめぐるシンドラーの真の目的

その謎を読み解くヒントが、ベートーヴェンが書いた有名な書簡「不滅の恋人の手紙」にある。まぎれもなくベートーヴェン自身の真筆ではあるものの、宛先が書かれておらず、また、実際に出されたのかどうかもかわらないというミステリアスなラブレターだ。

シンドラーは、『ベートーヴェン伝』でこれらを大々的に公表した上に、宛先はジュリエッタ・グイチャルディであると断言した。ベートーヴェンがかつて交際していたうら若き女弟子だ。

シンドラーは、ラブレターの宛先がジュリエッタだと本当に確信していたのだろうか? おそらくそうではない。ラブレターが書かれた時期を彼は1806年であると判断していたが(実際は1812年だと判明)、ジュリエッタはその何年も前にベートーヴェンと別れていた。そもそも、シンドラーがベートーヴェンの秘書になったのは1822年秋以降なので、それより前の恋愛模様など知るよしもない。確信のないままジュリエッタ説をぶち上げたと考えるのが妥当だろう。

故人の情熱的な一面がうかがえる秘蔵のラブレターは公表したい。ただし、その宛先が尻軽な友人の妻だと思われたりしたら困る。あくまでお相手は清純なヒロインでなければ。うむむと悩んだ末にひらめいたのが、妙齢で、身元もしっかりした貴族令嬢のジュリエッタを引っ張り出すことだった。

ひとりの女性を一途に愛する主人公としてベートーヴェンを演出したいがために、いかがわしい会話帳の一節を抹消し、かつ、伝記上で架空のラブストーリーをでっちあげる。それが「不滅の恋人」をめぐるシンドラーの真の目的だった、と考えられないだろうか。