重要な音楽史『第九』の初演にまつわる嘘
会話帳研究チームによると、そのシンドラーが、自らに都合のよいベートーヴェン像を作り上げるために会話帳を改竄したというのである。そして、その改竄箇所の多くが、研究者や伝記作家らが重要な史実の証拠として引用してきた一次ソースだったのだ。
たとえば、『交響曲第九番「合唱」』の初演について。この大作の演奏会を成功させるべく、シンドラーは万事を投げ打って駈けずり回った。参加アーティストをベートーヴェンのもとへ斡旋したり、会場や日取りを選定したり。
しかし当のベートーヴェンは、自分に過度にのめりこむシンドラーのことを内心うっとうしく思っており、この初演が終わったら彼を追っ払おうと心に決めていた。そして初演が盛況のうちに終了したたった2日後、さっそくベートーヴェンはシンドラーに「おまえは演奏会の収益を盗んだ」と言いがかりをつけたのである。
このエピソードを、シンドラーは初演ではなく「再演」の後に起こったと改竄した。彼は伝記作家として、初演の感動を金銭トラブルの描写で穢したくなかったのだろう。
「運命が扉を叩くのだ」と述べたというのもウソ
ほかにもシンドラーの改竄は数知れない。『悲愴ソナタ』をはじめとする、数々の音楽作品のテンポをめぐる議論。『交響曲第八番』の第二楽章が、メトロノームの発明者・メルツェルに贈った『タタタ・カノン』をもとに作曲されたという創作秘話。のちに「ピアノの魔術師」の異名で知られることになる少年フランツ・リストとベートーヴェンとの対面をめぐる交渉。
それだけではない。シンドラーが「平気で嘘をつく男」であることが、疑惑から事実となったいま、会話帳上の改竄のあるなしにかかわらず、彼の証言のすべてをいまいちど徹底して疑わなければならなくなった。
たとえば、ベートーヴェンが、『交響曲第五番』の「ジャジャジャジャーン」というモチーフについて「このように運命が扉を叩くのだ」と述べたというエピソード。あるいは、『ピアノ・ソナタ第十七番』について「シェイクスピアの『テンペスト』を読みたまえ」と忠言したという話。
これらのあまりに有名な伝説は、シンドラーの『ベートーヴェン伝』によって最初に報告され、その後、爆発的に世に広まった。他にソースとなる史料はない。