「中山恭子=拉致問題」で保守派の人気を得た

さて、中山恭子と言えば、第一次安倍内閣で拉致問題対策本部・事務局長に就任し、続く福田康夫内閣で拉致問題担当、麻生内閣で内閣総理大臣補佐官としてやはり拉致問題を担当した。小泉以降の自民党三政権(2006~09年)で、中山恭子=拉致問題というイメージは補強され、保守派からの人気は極めて高いものになった。

その人気は中山の得票数に表れている。初当選した2007年の参院選全国比例では38万6000票の個人票を獲得して自民党三位(このとき一位は舛添要一)。この後、自民党が下野したため、中山は自民党から離党して日本維新の会に移った。ちなみに自民党代議士として文科大臣・国土交通大臣を務めた夫の中山成彬が地元の自民党宮崎県連との係争で同党からの衆議院出馬がご破算になったあげく、自民党から除名されたために、中山恭子は常に夫と共に行動を取るようになる。中山成彬も恭子と同時に、たちあがれ日本→日本維新の会へ党籍を変更している。

そんな中、中山恭子にとって転機だったのは、日本維新の会から石原慎太郎率いる次世代の党が分裂したことだ。

日本維新の会が江田憲司率いる中道の「結いの党」と合併したことに立腹したため、一気に石原一派が分党して「次世代の党」を作った。「自民党より右」を高らかに掲げた次世代の党へ、ネット世論、保守層・右派は狂喜乱舞した。当然、中山恭子と成彬も次世代の党についていった。時に2014年8月1日のことであった。

「自民党より右」は一般の有権者から遠かった

ところが次世代の党結成からわずか4カ月後に行われた2014年の解散総選挙で、解散前勢力19議席を誇った次世代の党はわずか2議席と壊滅的打撃を被った。保守派・右派とネット右翼は、雑誌で、SNSで、遊説でと、次世代の党を応援しまくったが全く効果が無かった。いかに「自民党より右」という極端な同党の立場が、一般の有権者の皮膚感覚から乖離していたかの証左である。

このとき、日本維新の会で衆議院議員となって、次世代の党に移って落選した代議士たちは長い長い冬の時代を迎えることになった。が、中山恭子には関係が無かった。なぜなら中山恭子は参議院議員だったからである。2014年の衆議院選挙における次世代の党の壊滅は、落選議員の自民党復党と、次世代の党の党勢衰微にますます拍車をかけた。この選挙で、小選挙区で当選した平沼赳夫と園田博之は二人そろって、2015年10月に自民党に復党した。

こうなると次世代の党は衆議院に議席を失い、参議院だけの小政党となった。このとき次世代の党は松沢成文、和田政宗、江口克彦、浜田和幸、中野正志、そして中山恭子の、いずれも全員参議院議員だけの6名の政党になった。この中で最も知名度があるのは中山恭子であり、中山が推される形で次世代の党の党首になった。