原作とは違う「後味悪い幕切れ」

また、これも教科書には掲載されていないが、原作の最後の部分にはこうある。

「ぼくは、星野君の甲子園出場を禁じたいと思う。当分、謹慎していてもらいたいのだ。そのために、ぼくらは甲子園の第一予選で負けることになるかも知れない。しかし、それはやむを得ないこととあきらめてもらうより仕方がないのだ。」
星野はじっと涙をこらえていた。いちいち先生のいうとおりだ。かれは、これまで、自分がいい気になって、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。
「星野君、異存はあるまいな。」
よびかけられるといっしょに、星野は涙で光った目をあげて強く答えた。
「異存ありません。」

ここで星野君は監督の「処分」を受け入れ、自分なりの態度をはっきりと表明している。教科書の、後味悪い幕切れとは大違いだ。作者はここで星野君が間違っていたことを念押ししたかったわけではなく、真摯に反省ができる人間の強さと美しさを伝えたかったのであろう。しかし、教科書ではこうしたシーンはカットされているため、指示に従わなかった星野君が救いのない形で描かれ、結果として「監督に言われたことは守ろう」といった方向になりがちである。

「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメ?

さらにもうひとつ指摘したい重大な問題は、この話のなかに出てくる「犠牲」という言葉に関してである。「犠牲」とは、もともと神に捧げる「いけにえ」のことであり、小学生には極めて難しい意味合いを持つ。

この部分については原作にも、監督のセリフで「ギセイの精神のわからない人間は、社会へ出たって社会を益することはできはしないぞ」とあり、これが教科書では「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」となっている。

300万人以上の日本人とその何倍ものアジアの人々が犠牲になった戦争からたった2年後に書かれた原作のこのセリフには、大いに疑問を感じる。

「集団のための犠牲」というと、満州からの引き揚げに際し、お年寄りや子どもを含む集団の安全を守るため、因果を含めたうえで未婚の娘たちをソ連兵に差し出した悲惨な実話「差し出された娘たち」など枚挙にいとまがない。

「ギセイ」とわざわざ片仮名で書いたあたりに作者のわずかばかりの逡巡は匂うものの、戦争を反省し人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない無神経さだ。

こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない。すでに「犠牲バント」という言葉が消え、単に「バント」あるいは「送りバント」と呼ばれるようになって久しい現代において、「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメだと決め付けるようなもの言いは時代錯誤だ。ちなみに、もう1社の教科書では「犠牲」の部分は使われていない。この話をこんな形で道徳の教科書に使うのは不適切ではないだろうか。

そうした例は、この「星野君の二塁打」ばかりではない。(続く)

寺脇 研(てらわき・けん)
京都造形芸術大学 客員教授
1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、75年文部省(現・文部科学省)入省。92年文部省初等中等教育局職業教育課長、93年広島県教育委員会教育長、1997年文部省生涯学習局生涯学習振興課長、2001年文部科学省大臣官房審議官、02年文化庁文化部長。06年文部科学省退官。著書に『国家の教育支配がすすむ』(青灯社)、『文部科学省』(中公新書ラクレ)、『これからの日本、これからの教育』(前川喜平氏との共著、ちくま新書)ほか多数。
(写真=時事通信フォト)
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