「無事是貴人(ぶじこれきにん)」という禅語があります。禅語における「無事」の意味は、「平穏無事」「何事も無い」など、一般に使われるものとは違い、「外や他に救いを求めない心の状態」という意味です。また、貴人とは「貴ぶべき人」すなわち悟りに達した人を指しています。
戦国時代の武家と禅宗の結びつきは深いものがあります。その理由は、武家の暮らしの傍らに、いつも「死」というものがあったからでしょう。「いつ死んでもおかしくない」という彼らが禅に共感したところは、いつ死ぬかわからないこそ、「今をしっかり生きる」というところでしょう。いつ死んでもいいように、今を充実して生きたいという彼らの願いに、仏教や禅の教えが応えていたに違いありません。
「無事是貴人」という言葉は、まさにそのような心境をよくあらわした言葉であると思います。
臨済宗を開かれた臨済禅師は、「求心歇む(やむ)処、即ち無事」と言い切られています。
求める心があるうちは「無事」ではなく、求めるところがなくなったところが「無事」であり、そうすればそのまま「貴人」であるというのです。
「当たり前のことを当たり前に行う」
「無事是貴人」に続けて臨済禅師は説かれます。
「当たり前のことを造作なく当然におこなうことが、平常であり、無事ということである」
「造作なく」とは、「面倒くさい」「難しい」の反対語となります。どんな状況に置かれようとも、目の前のことをあるがままに、当たり前のことを当たり前に、すべてを造作なく行う人こそ、「無事是貴人」であると言うことができるのです。
日本の俳人であり脊椎カリエスにより34歳で早逝した正岡子規は、『病牀六尺』の中で、禅について次のような言葉を残しています。
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」
同年代の友人たちが活躍しているのを目の当たりにしながら、正岡子規は迫りくる死というものをどのように受け止めていたのでしょうか。やりたいことは数え切れないくらいあったはずです。
それでも狭い病床で、正岡子規は「今」だけを見つめていたに違いありません。なぜなら、この言葉からは、マイナスな思考は一切感じられないからです。
人間はどうしてもいつか訪れる「死」というものに、恐れおののいて、ついには心を奪われてしまうのです。
「死」があるからこそ、「生」があると考えることによって、「生」の充実こそが「死」の充実に繋がっていくと信じることができるのです。いかなる時も、いかなる場面も、平気に当たり前に生きていく。
簡単なようで、実はこれが本当に難しく、人生にとってまさに大切なことと言えるのではないでしょうか。