人間は生きている以上、目で見るもの、耳で聞くもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、身体で感じるもの、心に思うもの、それらに惑わされてしまうことは仕方のないことと考えるのが仏教です。

かといって、惑わされないように真っ暗な部屋で目隠しをして、誰とも会わずに生活をしてみたらどうでしょう。確かに、惑わされるものは少なくなるかもしれません。ですが、何も見ない、何も聞かない、何も思わない人生にどんな意味があるでしょうか。

つまり、人生を豊かにするために大切なことは、入ってきた情報を拒絶することではないのです。しっかりと受け止めた上で、執着して停滞することの無いようにすることこそ大事なのです。

私たちは、人生を歩む中で、いつ「地震」や「強風」のごとき苦悩に遭うか分かりません。それが、人生の厳しさです。自分の心が折れそうになるほど、大きく動揺することもあるでしょう。そんな時、その苦悩による心の振動を柔らかく抑え、元のポジションに戻してくれるのが、「心の柱」なのです。

私は、この「心の柱」を自分の中に探していき、見つけて、そして確立することこそ、禅の悟りではないかと思うのです。自分と向き合って、自分の中から「心の柱」を見つけることができれば、囚われて止まることはありません。

例えば、嬉しいときは嬉しいほうへ、悲しいときは悲しいほうへと、いくらでも傾いてもかまいません。心の柱は柔軟にたわむことができるのです。

柱の振れ幅は、人生の豊かさに他なりません。ぜひ皆さんも本当の自分と向き合っていただいて、心の柱を探して下さい。

人生に信念はいらない

私たちの人生に確固たる信念はいらない、と言ったら大袈裟でしょうか。

どうしても、人生の目標であったり、生まれてきた意義であったりと、強固で頑なな柱に憧れを持ってしまうかもしれません。

強固すぎる柱は、たしかに揺れに対して強いかもしれません。しかし、想定外の揺れに対しては、意外ともろいものです。折れた柱を元に戻すのは、容易ではありません。それに対して、柔軟にたわむことのできるしなやかな柱なら、そうそう折れてしまうことはないのです。