開業後も家庭用品のバイヤーを務め、英独伊やスペイン、デンマークなど、まだ珍しかった海外買い付けにもいった。当時、売れ出した高級食器や銀製品などを揃えるため、各地の展示会や見本市をのぞく。買い付けた商品が日本に届くと、梱包を解いて緩衝材をはがし、輸送コストを加味して値札を付けていく。どの商品が何かわからなくなるといけないから、買い付けのときに写真を撮り、リストに絵を描いておき、照らし合わせる。全部、1人でやった。

梅田店では四十代前半、店全体の企画や運営を担う企画部で、マネジャーと部長もやった。予算や販売促進策、収益計画などをつくり、ここでも、お客の最大満足を追って、「誰に、何を、どのように」という基本を貫く。振り返れば、厳しく鍛えられた梅田店時代のことが、一番身についている。

「務本。本立而道生」(本を務む。本立ちて道生ず)――何事も大本をつかむことが大切で、それができれば、自然にとるべき道がみえてくる、との意味だ。中国の古典『論語』にある言葉で、あれこれとぶれずに、基本を成すことに努めるよう求めている。梅田店で店づくりから収益の管理まで、揺らぐことなく基本を貫いた山本流は、この教えと重なる。

「売れ方」には、法則性がある!

1951年3月、横浜市で生まれる。父は会社勤めで、母と姉2人の5人家族。体が大きくて運動神経もよく、小学校時代は野球に打ち込んだ。でも、父に「将来はプロ野球選手になる」と話すと、「なれるのは何万人に1人、お前には無理だ」と言われる。

中学校では考え直し、バスケットボール部に入る。高校や明治大学の体育会でも続けた。どこも強く、中学では神奈川県で優勝、高校でもインターハイに出て、3年のときに県の選抜チームに選ばれて国体で優勝する。明大時代は、全日本の学生選手権(現・大学選手権)で3連覇。4年のときは主将も務めた。スポーツでは、基本的なことの反復が大切で、それに長く取り組んだから、梅田店での教えも受け止めやすかった。

就職では、バスケットチームを持つ企業から、誘われた。でも、入学時から「バスケットは大学まで」と決めていて、練習が厳しいなか、商学部で小売業の経営などの授業に出て、学んでいた。