「報道の自由とプライバシー保護のどちらかを選べ」

個人が法に触れないで自由にやっていることを暴くのは、プライバシー侵害ではないかという古くからある批判についてはこう反論する。

まず、公人かどうかの線引きだ。自分を世間に常に露出することでその存在が成り立つ人は公人で、その人たちは一般人と比べてプライバシーを守られる権利は狭められる。よって小室哲哉は公人である。

以前、大学で「編集」を教えている時、必ず何人かの学生からこんな質問が出た。

「フライデーはプライバシー侵害をしている」
「人権侵害もあるのではないか」
「恥ずかしくないのか、フライデーみたいな雑誌をやっていて」

それに私は、いつもこう答えていた。

「そういう批判がよくある。いくらでも反論できるが、そう考えている学生は、今すぐにここを出て行って、絶対、出版社を受けようなどと考えるな」

そういっても、出ていく学生はいなかった。

たしかに編集者の使命とプライバシーは時として折り合わないことがある。

『ジャーナリズムとしてのパパラッチ』(内田洋子著/光文社新書)の中で、イタリアの名編集者、グイド・カルレットはこういっている。

「報道の自由とプライバシー保護のどちらかを選べ、と言われて、倫理観に縛られて<プライバシーの保護>を選んでしまうようでは、マスコミで働く意味はない」

日本で一番プライバシーについて考えているのは、だれか?

週刊誌を批判する連中は、週刊誌はプライバシーのことなど考えていないと口をそろえる。

週刊誌OBとしていう。日本で一番プライバシーについて考えているのは、週刊誌の編集者たちであること間違いない。文春の新谷学編集長も、ギリギリまでプライバシーについて考えているはずだ。

編集長は場合によって顧問弁護士の意見も聞く。小室の記事がそうだとはいわないが、弁護士でさえ判断できないときがある(私のときはそういうケースがままあった)。最後は編集長の決断力に委ねられる。その号の特集はもちろん、コラム、マンガに至るまで、全責任を編集長が負うのだ。

才能を不倫報道などでつぶしていいのか、という批判もあるようだが、それでつぶれるような才能はそれまでのこと。宮崎謙介はつぶれたが、山尾志桜里は永田町に戻ってきた。

ニューヨーク不倫を文春に報じられた渡辺謙は、奥さんとは離婚するかもしれないが、彼の俳優としての評価には影響していない。