日本の歴史とはホモソーシャル的である
どうも日本人は同調圧力とムラ社会の農耕民族ゆえか所属感覚をこよなく愛するらしく、組織の中での部品ごっこ、「会社の歯車なオレ」ごっこが好きだ。
大河ドラマの切り替えや、時代劇ロマン系大型ドラマスペシャル、歴史もの映画の地上波放送など、年末年始は「歴史の時間」。筆者はそれらを決して嫌いではない上に、このお正月は子供が受験勉強をする隣で歴史教材や歴史小説・新書を読んでいて思ったけれど、時代劇や歴史というのはまあ基本的に9割5分、男の世界、ホモソーシャル(単性社会)だ。
それが史実(歴史資料に厳密に鑑みて導かれるファクト)だし、ほかに記録が残っていないのだから仕方ない。つまり古代から近現代にかけての日本がそういう社会だったということの反映なので、そこはいったん、ああそうかいと受け入れて男子も女子もみんな育つ。
だがどうも日本史は、もしや歴史上の重要人物が卑弥呼で始まることを免罪符にしているのか、その後の連綿と男性ホモソーシャルな歴史記述に対して遠慮や躊躇や、後世からの疑問の提起がなさすぎるように思う。だってほら、いまだってこれを読みながら、「ハァ? 歴史が男の世界なのは当たり前じゃねぇか、なにが悪いってんだ?」と全く意味がわからない読者がいるはずだ。
有史以来、地球上の人類は当たり前のように男と女がほぼ半分ずつ存在し得たからこそ累々と子孫繁栄してきたわけなのだが、その歴史が男の世界なのがなぜ「当たり前」なのか、そして現代史以降はそうはいかないのか。そこに疑問を持ってみると、見える世界が広がるかもしれない。
さて、そんな歴史教育を素直に吸収した結果なのだろうか、とかく日本の歴史物コンテンツは「激動期を生きた男たちの愛と死とロマン」がテーマだ。上司と部下間の忠義や仲間同士の絆など、臆面もなくBL(ボーイズラブ)めいた「(男同士で)惚れた腫れた裏切った死んだ」がロマンの根幹であり、実際に史実のあれこれの場面に見え隠れする歴史上の人物同士の同性愛だって(史実として)指摘されている。それは世界史でも同じことなのだけれど、ただ日本に独特な傾向とは、それを「忠義」という言葉のもとに相当量の美化をほどこして「社会規範化・道徳化」まで行ったことだ。
大義のもと、全体がよく機能するために、部品として忠実で性能が良いことに集団的な陶酔がある。そして部品同士でいちゃいちゃ(そのくせ、現実の同性愛者に対しては理解を拒否し狭量極まりないという自己矛盾に無自覚)。最期は「部品としてその一生をついえる」。ううむ、さすが戦後の戦犯処分を一部うやむやのまま財界に人材投入して経済戦争でのリベンジに全力を尽くした日本。経済は代理戦争であり、会社組織はまごうことなき兵隊なのだ。