でも、それって戦時と変わらずいまだに人の命や価値が安い文化ってことだ。一兵卒的な奉公意識にうっとりする男たちは、本人たちが何を自負しているか知らぬが「安い」。仲間内でうっとりしているところに悪いけど、日本の経済活動はもう、均質な男たちだけのものじゃない。新世代にはすでに「規格外」の、枠組みから自由な男たちも多いし、愛と死とロマンに加担させられる暇もつもりも一ミリもない女たちからすれば、はじめは「まあ、少年みたいに純粋なのねぇ」なんて一生懸命に均質男のかわいげを理解してあげようとしてきたけれど、いい年したおっさんたちがいつまでやってんだ、キモいわ目を覚ませと、そろそろサジも室伏ばりにぶん投げる頃だ。

「一兵卒」とは「社会のネジ」になるのと同じ

「先進国に追いつけ追い越せ」で急速に国力を付けることが求められた時代には、そういった所属意識で束ねた、顔も名前もなく均質な労働者観が効率が良かった。労働者の存在価値は安くてよく、一兵卒でいてくれる方が都合がよかったのだ。でも多様性が求められる現代社会に、この価値観が主流になっているようではアウトだ。

にもかかわらず、日本のいわゆるエリート層と呼ばれてきたような旧弊な業界や企業・組織群には、いまだにそんな「一兵卒的所属意識」を愛玩し組織統率の手段とする、魂を昭和に置いてきた既得権益おじさんたちがいて、下から供給される若手たちをせっせとその感覚(俺色)に染め上げている。

まあ染まる側も染まる側なりに素質があるからなのだが、哀しいのは、彼らがわざわざ世代を継いで社会のフツーから乖離していくことだ。どうやら男にとって、何かに所属して頭と運命を預け、「部品になる」ことというのは、えも言われぬ快感なんじゃないか? そう考えなきゃ、学生時代や若手の頃はあれほどまでに優秀だったはずの人材たちが、喜んで大きな機械に組み込まれ、歯車やネジとなって周りも見えずにうっとりグルグル回っている様子に、納得がいかない。

『銀河鉄道999』という昭和SF漫画の金字塔では、主人公の星野鉄郎はミステリアスな美女メーテルの誘いにムニャムニャしつつ、母を殺した機械化人たちと同じ「機械の体」となることを求めて共に宇宙の旅に出る。だがその終着地である機械化帝国の中枢母星・惑星大アンドロメダは、メーテルの母プロメシューム女王の野望によって「意思ある部品」となった人間の若者たちで構成されていた。鉄郎は機械の体を手に入れるのではなく、ネジの素材となるためにメーテルに選ばれ、連れていかれたことを知って、大きなショックを受ける。

機械化帝国は大きくて盤石で、その一部になることは名誉なのだと甘い誘いを受けても、鉄郎は「ネジの体なんて、冗談じゃない」と抵抗した。彼が少年時代を通して切望してきた「機械の体を手に入れること」とは、社会の勝者の側になることのメタファーであって、社会の部品になることではない。実のところ母プロメシュームを倒して機械化帝国の滅亡を願っていたメーテルやネジたちの一斉蜂起でアンドロメダは崩壊し、鉄郎はあれほどまでに焦がれた機械の体を手に入れることなく、生身の己のまま、地球へ生還する。

ネジにならずに生き残れ、という昭和の漫画のメタファーとメッセージ。なのにこの平成の、しかも30年を経て終わろうとする時代に、一兵卒ごっこに興じる男たちはまだ機械化帝国に身を委ね、ネジに甘んじるつもりなのだろうか。勝者になるつもりが、いまやその姿は小さく誰も気に留めない(そして誰でもよい)ネジであることに、いつ気づくのだろうか。

(写真=iStock.com)
【関連記事】
"残業するヤツが偉い"と信じた50代の末路
社長が"そばに置きたい"と思う人の3条件
「社畜」が主人公の漫画が増えている理由
米軍が本気でニュータイプ育成に挑むワケ
30代は、1ランク上の人と付き合い「背伸び」をせよ