※本稿は、大村大次郎『超訳「国富論」――経済学の原点を2時間で理解する』(KADOKAWA)を再編集したものです。
経済学の古典「国富論」とは?
イギリスの倫理学者アダム・スミスが書いた経済学の古典書として知られる「国富論」。経済学を学んだ人だけではなく、中学校・高校で歴史の授業を真面目に受けていた人なら、一度は耳にしたことがあるはずだ。世にいう「経済学」というもの自体がそもそも、ここから始まったとさえいえる“経済古典”だ。
この国富論が、実は現代において大きく誤解されている。
国富論というと、「経済はすべて市場に任せるべきだ」という主張が書かれているかのようなイメージを持たれているのだ。
国富論には、「神の見えざる手」(原書に「神の」という記述はないが、戦後の日本の経済学者が好んで使用し、今ではこの訳が一般的になっている)という有名な文言がある。
「個人個人が自分の利益を追求することによって、神の見えざる手に導かれるかのように社会全体の利益にもなっている」――と記されているのだ。
この「神の見えざる手」というフレーズだけを切り取って、国富論は「経済の自由放任主義を説いたもの」「すべて市場に任せておけば社会のためになるという論」と捉えられがちなのだ。
昨今の強欲資本主義の信奉者たちも、アダム・スミスの「神の見えざる手」という言葉を引用することが多い。「経済は自由にさえしていれば、社会は豊かになる」というのである。
しかし、それは「国富論」で説かれている本来の主旨からはかなり逸脱しているのである。
どうやれば国民が豊かになれるか?
国富論は、正式な名称は、
「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」
である。直訳すると「国富の性質と原因の調査」ということになる。
内容は、近年の経済学説のように一つの理論で経済のすべてを説明しようとしているものではない。当時の経済問題を一つひとつ取り上げ、それに対しておのおのの最善の処置を説いているものである。
1つの原理原則にこだわらず、柔軟に問題解決を図ろうとしているのも、国富論の特徴である。
例えば国の過度な経済規制に関しては「個人の私利私欲を尊重すべき」と主張し、独占権益の問題に対しては商人の強欲さを批判し、また労働者の賃金問題においては、経営者にモラルを求めたりしているのだ。