また、国富論には「金持ちがより多くの税金を負担するのは、社会の公正を保つ上で当然」という文言もたびたびでてくる。そして、これについても大して深い理由は述べられていない。これも「当然のモラル」なのだ。

そもそも、アダム・スミスは倫理学の教授であり、モラルについての分析をしてきた人物である。

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彼は、国富論を出版する17年前に、『道徳感情論』という本を出版している。この『道徳感情論』は、人の感情が社会に及ぼす影響などを丁寧に分析した、心理学の原型ともいえる内容になっている。ともすれば宗教的な善悪感だけで済まされがちな「道徳」や「感情」というものを、社会学的にアプローチし、「共感」や「憐憫(れんびん)の情」がいかに人間社会のバランスを取るのに役立っているかを説いているものだ。

アダム・スミスは「共感」や「憐憫の情」というのは、宗教的に押し付けられる「高尚な義務」ではなく、人々が自分の社会を守るための大事なスキームである、と主張しているのだ。

この考え方は、国富論の中でも随所に見られるものである。

つまり国富論というのは、「モラルを守った上での経済活動の自由」を推奨したものであり、現代のモラルもなにもない弱肉強食の強奪資本主義を推奨したものでは決してないのだ。

「神の見えざる手」の本当の意味とは?

実は「神の見えざる手」という文言は、国富論の第4篇第2章になるまで出てこない。

そして、この第4篇第2章というのは、「独占貿易」「輸入規制」への批判がテーマとなっている。

当時のイギリス政府は「国のため」「社会のため」という言い訳を使い、「独占貿易」や「輸入規制」を行ってきた。

これに対しアダム・スミスは国富論で、

「独占貿易や輸入規制は決して国のため、社会のためにはなっていない」
「輸入規制によって本当は外国から安く買えるものを高い費用をかけて国内で生産している」
「独占貿易と輸入規制を廃し、自由な取引をさせたほうが、結果的には国のためになる」

ということを述べている。