これらの中には一見、矛盾しているように思われる部分もある。しかし、経済問題というのはそもそも複雑なものなので、一つひとつの問題に対して、それぞれに合った解決方法を見つけ出すというのは、自然なことだともいえる。

むしろ、複雑な経済問題のすべてを、ある単純な1つの方法で解決しようとしてきた後年の経済学説のほうが、よほど非現実的で本質的な矛盾をはらんでいるといえる。

国富論には、全編に共通している一つの原理原則がある。

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それは、「国民全体が豊かにならなければ、国は豊かにならない」というものだ。しかもこれは理論というより、「最低限の常識」「当たり前の前提条件」として、国富論の中では扱われている。

これを前提として、「国民全体を豊かにするにはどうすればいいか」という主旨で国富論は書かれているのだ。

私利私欲や市場原理が大事だと述べているのも、この最終目的を果たすための便法の一つとして提示しているにすぎないのである。

「最低限のモラル」は大前提

国富論を理解する際に、まず念頭に置いておかなくてはならないのが、「国富論は最低限のモラルが守られることを前提に書かれている」ということだ。

アダム・スミスは、確かに経済活動の自由を推奨しているが、何から何まで自由にしていいと言っていたわけではない。最低限のモラルは守った上で、という条件付きである。現代におけるモラルハザード的な資本主義を容認しているわけではないのだ。

例えば、国富論では、

「経営者と労働者では、必然的に経営者のほうが強くなる」
「しかし経営者は労働者が家族を養えるだけの最低限のものは払わなくてはならない」

としている。

しかも、ここでいう「最低限のもの」というのは、「妻と子ども数人を養える」という基準まで示されている。

つまり、労働者の賃金については、市場の自由に任せるのではなく、経営者に対して最低限度の責任、モラルを求めているのである。しかも、それについては大して深い理由も述べていない。つまり、アダム・スミスは「理由を言うまでもなく、それは当たり前のこと」と捉えているのだ。当時は「経営者が労働者の生活を保障するのは当たり前」というモラルが存在していたのだ。