ゴール付近では役員らが出迎えた。昨年はゴール地点に豊田章男社長が立ち続けたが、今年は欧州出張で欠席した。今年はコネクティッドカンパニー社長の友山茂樹専務役員(2018年1月1日付で副社長)らがゴールした全ランナーと握手した。この駅伝大会の主催者は社内の親睦組織で会社主催ではないが、例年、社長ら役員も参加するという。

「今日から血みどろの苦闘が幾年も続く」

トヨタの社内駅伝大会が始まったのは敗戦から2年後の1947年。社員は6345人で国内の生産台数は3922台にすぎなかった。社員数は現在(約34万人、連結)の50分の1、生産台数は現在(1000万台、連結)の2500分の1の規模だった。それでも第一回の駅伝大会には数十チームが参加した。

撮影=安井孝之

当時のトヨタの状況をみると、47年3月に自動車生産が本格的に始まり、BM型トラックをつくり始めたころである。47年4月に独占禁止法が公布、12月には過度経済力集中排除法が制定され、独占的な企業を解体することが目指された。トヨタも解体対象の会社と指定された(指定解除は49年1月)。

このころのトヨタには確かな将来が見えてはいなかっただろう。社内駅伝の開催趣旨も「スポーツを通じて働く意欲を盛り上げ、職場の団結をより強くしよう」だった。

現在の豊田章男社長の祖父に当たる豊田喜一郎社長(当時)は46年5月、「自動車工業の現状とトヨタ自動車の進路」と題した講演でこう語っている。

「恐らく今日から血みどろの苦闘が幾年も続く事でしょうが、私個人としても倒れるまで死力をつくすつもりであります」

その後、「ドッジ不況」(49年)、労働争議を経て、50年に喜一郎社長が経営責任を取って、退任。社長復帰を目前にした52年3月に亡くなったのだから、「倒れるまで死力を尽くすつもり」を図らずも果たした人生だった。

そういった苦境の中で生まれた社内駅伝である。

「生きるか死ぬか」という瀬戸際の戦い

今年の駅伝大会があった5日前、11月28日にトヨタの役員人事が発表された。執行役員の変更時期を例年の4月から1月に前倒し、各現場と一体となった執行をスピードアップするという。

その際、豊田社長は「自動車業界は100年に一度の大変革の時代に入った。次の100年も自動車メーカーがモビリティ社会の主役を張れる保障はない。『勝つか負けるか』ではなく、まさに『生きるか死ぬか』という瀬戸際の戦いが始まっている。(中略)トヨタに関わる全員が、心あわせて、チャレンジを続けていく」とコメントした。

ある意味、70年も前に喜一郎氏が抱いていた危機感と章男氏は同じような危機感を今、共有しているのかもしれない。会社の規模も駅伝大会の規模も70年間で大きく様変わりしたが、目の前の未来を見た危機感には大差がないのだろう。