「稽古もしないのによく本場所で勝てるなあ」
事は7年前にさかのぼる。
野球賭博に関与したとして、大関・琴光喜、大嶽親方(元関脇・貴闘力)が協会を解雇された事件だ。大嶽親方は貴乃花親方の兄弟子であり、貴乃花親方の横綱時代には土俵入りで太刀持ちをつとめた昵懇(じっこん)の間柄である。
このとき、貴乃花親方は相撲協会(武蔵川理事長・当時)の調査のずさんさを指摘し、理事辞職届を出してまで猛抗議している。しかし大嶽親方は解雇、退職金も支給されなかった(琴光喜には支給)。ちなみに、野球賭博の捜査段階で力士間の八百長メールが発覚し、相撲界を揺るがす事態に発展した。警察が動き、一般紙が公にしたからこそ問題が表面化したのである。今回の「即・被害届」の背後に、貴乃花親方の胸に7年前の痛切な経験があったとみられるのではないか。
加えて、貴ノ岩を除くモンゴル力士たちの土俵ぶりを、貴乃花親方は気に入らない。例えば白鵬が立ち合いで相手の顔を張ったり、肘打ちをかましたりすることは「横綱かくあるべし」に反するのだ。そしてスポーツ紙やテレビがあまり触れたがらない、“無気力相撲疑惑”がある。優勝の行方が見えてくる場所の終盤、どういうわけかモンゴル出身の横綱・大関の中で争いは起こらない。貴乃花はこの件に関して強い疑念を持っているようだ。
地方巡業の支度部屋出入り口に注意書きが張り出されていたことがある。
「稽古の時間、横綱・大関が稽古しているのにも関わらず、稽古の土俵に顔すら出さず、仕度部屋で寝ている関取衆がおりますが、“稽古もしないのによく本場所で勝てるなあ……”と貴乃花巡業部長が感心しています。名前は出しませんが気を付けましょう。巡業副部長」
巡業副部長の玉ノ井親方(元大関・栃東)の伝聞という形を取った苦言だが、なんとも痛烈な皮肉だ。稽古に励めと読むのが普通だが、現状の軋轢から振り返ると、いい加減な相撲を取る力士は許さないという警告にも取れる。貴乃花親方自身は、現役時代、常に気力を尽くして全力で土俵に上がっていた。その姿勢を後輩の力士にも求めたい。その理想追求が貴乃花の「原理主義」とも呼べる行動に繋がっている。
相撲ファンを裏切るような八百長、つまり勝ち負けをお金で買ったり、星の貸し借り(「この前勝たせてもらったから今度はわざと負けましょう」)をしたりというようなことは言語道断だが、無気力相撲の構図には同情せざるをえない背景も存在する。
大相撲は1場所15戦を行い、その勝ち負けで次の場所の番付が決まる。8勝以上すれば勝ち越し、8敗すれば負け越しだ。千秋楽で、7勝7敗で絶対に負けられない力士と1勝13敗でもう勝敗が大勢に影響のない力士が顔を合わせたとする。そのときに無気力相撲が起きやすいのは想像に難くない。
相撲ファンであれば「今の一番、ちょっとな」と首を傾げることも当然ある。しかし、貴乃花親方の求める「理想」についていけない部分があると感じるのも相撲ファンなのだ。力士の屈強な肉体と精神に感心しながらも、人間の弱さすらも受け入れたいのである。