87年に発売した「スーパードライ」が大ヒットし、98年には国内の年間シェアで45年ぶりに首位に立った。なぜ、そんな頂点で、人事制度の改革に打ち込んだのか。人口減少時代が視野に入り、将来が不透明になった。一方で、バブル期に大量採用した面々が、30代後半から40代になっていた。この集団を将来の主戦力にするには、どう能力を引き出し、道を拓くかが課題だ、と確信していた。
改革は、初期から成果が出た。国際化の最重要市場と位置付けた中国への進出に、必要な人材の発見だ。アサヒは94年に杭州などのビール3社に資本参加し、技術供与と商標などの使用を認めるライセンス契約を結び、中国市場に参入した。さらに総合商社と組み、北京と煙台のビール会社の経営権を取得。97年には中国最大のビール会社と合弁会社をつくり、深セン地域で工場建設に着手。切り札の「スーパードライ」を生産し、参入を本格化させた。
ただ、事業の拡大に、派遣する人材が追いつかない。生産の要員だけでなく、総務や経理を受け持つ幹部も要るし、営業拠点にも監督者が欠かせない。だが、社員のほとんどが中国へいったこともなく、言葉もわからない。
そこで、中国の工場のデータを豊富に集めて分析し、「こういう要件に合った人材がいい」とのコンピテンシー診断をつくり、社員のデータを次々にかけてみた。すると、適任者の名が何人も出た。その上位者から5人までは、普通に考えたら、とても中国の駐在要員には出てこない顔ぶれだ。
診断で監督者に「最適」とされた人は、高校卒で入社し、30年近く工場などで経理や業務の仕事をしていた。海外経験はなく、中国語は話せない。電話をかけて、「実はこういうことで、あなたを中国駐在に考えているのだが」と話すと、驚いて「ちょっと待って下さい。1週間、考えさせてほしい」との答えが返ってきた。
1週間後、「やはり無理かな」と思いながら電話をしたら、「いかせていただきます」と言ってくれた。01年5月に48歳で杭州の工場へ赴任し、併設した事務所で経理や業務などの管理を担当した。その後で妻もいき、杭州と北京、上海で計10年、駐在した。もちろん、この人の力だけで中国での販売が伸びたわけではない。ただ、アサヒの存在感が高まったことに貢献したのは、間違いない。同様の事例はほかにもある。やはり、社員1人1人に光を当て、普段は「声にはならない声」を、聴き取る仕組みが物を言った。