「華美はダメ」と言い続ける日本の校則

簡素でまったく物を持たない暮らしは、アメリカでは先のミニマリストのバボータ自身が認めるように、変人扱いされかねない価値観だが、日本では多くの人が、そうした暮らしを「素晴らしい」と考える。それどころか、そういう暮らしを実践している人を「立派」だと賞賛し、それができない自分を卑下(ひげ)してしまったりする人さえいるのは、ひとえに「華美はダメ」と言い続ける日本の校則のせいではなかろうか。そして、その源流が、江戸から明治にかけて受け継がれてきた質素倹約の精神にあると思うと、なんだかな、と思わずにはいられない。

アメリカでは、ミニマリストが自分のライフスタイルについて言及すると、まわりの人は自己弁護をしたり、消費文化のどこが悪いといった議論になってしまうというが、「質素倹約が旨」の浸透した日本では、そうしたことはついぞ起こらない。

起こらないどころか、質素倹約ができる人は一段上、できなかったら、できるようにならなくちゃというプレッシャーさえ感じる。それがどこから来るかといえば、みんなが学校で刷り込まれたであろう同じ価値観をがっちり共有してしまっているところからだ。

日本と米国のミニマリズムはどこが違うか

先に登場した、3児の母であるミニマリストのレイチェルは、子どもの1人に障害があることを告白しつつ、子どもたちとの日々の暮らしの中でのシンプルさの必要性を強調する。

「自分ではコントロールできないぐらいに物事が複雑になってしまうと、自分でコントロールできるように、できるだけいろいろなことをシンプルにしていかなくちゃと感じます。息子に障害があることで、私はミニマリズムそのものについて、また、その必要性について学びましたが、同時に息子が暮らしやすくするためにそれが必要だということも、学んだのです(※2)」

レイチェルは、障害のある息子とその兄弟たちが気持ちよく暮らしていく方法の一つとして、ミニマリズムを取り入れている。それは基本的に便宜的な生活手法の一つであって、道徳観とは一線を画したものだ。

ここが、日本の断捨離やミニマリズムとは違うところではないだろうか。道徳的価値としての質素倹約が根深く浸透している日本では、あるべき姿としての質素倹約、道徳的に一段評価の低い華美贅沢という価値観になってしまう。