客にも品格を要求するのが京都流
京都には【おいおい税】というのがあるのをご存じだろうか。「お客様は神様だ」と言わんばかりに店員を「おい!」と呼びつけるようなタイプの顧客に対して値段を吹っかけ、それを偉そうな態度にかかる税金だとする考え方だ。京都は高級な商品を扱う店ほど明確な値段が記されていないから、そういうことも平気で起こりうる。
もっともこんな逸話も、もはや都市伝説の域ではある。ただ、これを京都人のイケズだとか意趣返しだとか考えているようでは本質は見えてこない。売り手が厳しく己を律してマナーを遵守するように、彼らは客に対しても品格を要求するのだ。ときには利益を度外視してまで。むろん、そういう場合だって「お客様のように結構なご趣味のお方に喜んでいただけるような品はございません。ほんまに残念なことどした。おおきに、ありがとうございます」と平伏するのだが。
ちなみに、この返答の襞には様々な感情が隠れている。( )で括ってお見せしよう。「(一見さんのくせに)(横柄な)お客様のように(もう)結構な(ひどい)ご趣味の(卑しい)お方に喜んでいただけ(ても嬉しくないので、売)るような品はございません。ほんまに(あなたのような客がきてしまって)残念なことどした。おおきに(迷惑)、(時間の無駄を)ありがとうございます」
怖い? だが怖いからこそ暖簾をくぐる前に襟を正す心構えが生まれる。
わたしは【おいおい税】を払うのも、上記のようなお言葉を賜るのも真っ平なので、節度と敬意を持ってお店と付き合ってゆきたいと思う。加茂のおばちゃんから葱一本買うときも労いや時候の挨拶を添えるのを忘れたくない。
いかがだろう。面倒臭そう? だが要は互いを尊重する心さえあればいいのだ。さすれば言葉や行動は自ずと伴う。それこそ茶道のように。
お点前というやつを傍から眺めていると作法、作法で雁字搦めのようだが、その実、1つひとつの様式には意味がある。作法ありきなのではない。理に叶っているから作法化したのだ。なにより茶の湯において大事なのは主人と客の平等。客同士の平等。一期一会の精神。作法など、それらに比べたらどうでもいいこと。些末事なのだ。
なにしろ士農工商絶対の時代に茶席では帯刀を許されなかったのだ。茶聖・千利休は商人であった。――京都式ビジネスマナーを考えるときの、それは枢要な手掛かりである。