厳格なしきたりと独特な慣習が残る古都・京都。礼儀作法の中に潜むマナーの真髄を作家の入江敦彦が説く。

空気が読めない者は京都で生き残れない

京都人はイケズ(意地が悪いさまを表す関西の言葉)だと言われる。その根拠は表裏があるからだという。はっきり感情を顕わにしてくれたほうがすっきりするじゃないか! とか。そういう糾弾に出合うと、つくづく日本人は薄っぺらくなりにけりと哀しくなる。そしてウンザリする。

(amanaimages=写真)

けれどわたしは発言者に対してウンザリ顔を見せたりしない。なぜってそれが京都式だからだ。根拠のない言いがかりにも「そうでっか。そら、すんまへんでしたなあ」とにっこり笑うのが彼らである。すなわち世知に長けている。それは相手への思い遣りでもあり、心地いい人間関係を構築するうえでの常識。大人のマナーだ。京都人をイケズ呼ばわりするのは実社会を知らない若ゾーの言い種といえよう。

京都人は裏表があるのではない。表と裏しかないような単純な思考法をしないだけだ。あるいは言葉や行動にも綾があり襞(ひだ)があり奥行きがある。また、それを知っているので常に相手の心の綾に紛れ、襞の裏に潜み、奥に隠れた真意を探ろうと考える。

現在は他都道府県からの流入も増え、だいぶ事情も変わってきたが、洛中(豊臣秀吉が土塁の壁で囲んだ京都の中心地)に暮らすなら人間心理の読解術の会得は必須である。祖父母から、両親から、近所の“うるさ型”たちから京の子供らは他者への斟酌を叩き込まれる。空気が読めないんですよーなんてへらへらしていては生き残れない。

幕府から政治機能を奪われ、京都は江戸時代以降一貫して職住一体型のビジネス都市として発展してきた。だから相手との適切な距離感を測り、気持ちを推量し、直接表現を避けるやり方は規模の大小にかかわらずビジネスの場でも同様である。大金の動く商取引でも、店頭接客の場でも、あるいは八百屋で葱一本物色するのも変わらない。丁寧な斟酌が常に求められる。