スピードが求められる産科救急の現場
この30年で産科医療の技術は目覚ましい進歩を遂げました。社会保障や健康保険制度が整備されたことにより、妊娠出産時の妊婦と赤ちゃん死亡率は劇的に低下しています。2015年の周産期死亡率は0.3%と過去最低を記録しています。
日本は“世界でもっとも安全に出産ができる国”といっても間違いではありません。しかし安全を追求し続ける社会の中で、お産は本来命がけで行うものだという認識が薄れてしまっています。
最近、危惧しているのは妊娠・出産の「ファッション化」の傾向です。さまざまなマタニティ商品が登場するのにあわせて、妊婦向け雑誌では読者参加型の親しみやすい記事が人気になっているようです。その内容は、まるでファッション誌のように楽しい情報が誌面をにぎわせています。
そうした記事の中には、つらい出産期間を少しでも快適に安心して乗り越えられるように、という良心的な意図から提供されているものもあります。私も出版社の求めに応じて、記事の執筆や監修をすることがあります。
ただし、医師である私からみると、その中には無責任な記事も目に付きます。妊娠中という「特別感」で財布のひもが緩くなっている妊婦や家族を相手に、活発な消費をうながそうとするあまり、妊娠・出産のリスクを高めることも紹介されているのです。そのひとつが妊娠中に旅行をする「マタニティ旅行」、いわゆる「マタ旅」です。
無責任な記事に後押しされ、妊婦さんが下した決断は、生死を分けるものになってしまう恐れがあります。
産科救急の現場は刻一刻と状況が変わる厳しい現場です。先日、当院に妊娠8カ月になる妊婦さんが夜間の時間帯に緊急搬送されてきました。
診察すると子宮口はほぼ全開で、赤ちゃんの足とへその緒が見える形でした。逆子で、また分娩の前にへその緒が見えてしまうのは、赤ちゃんに酸素が届かなくなってしまう状態で、状況が長引けば胎児死亡に陥る危険な状態です。
私は産科・新生児科の医師と共に帝王切開の準備に入りました。しかしその準備中に手術室で破水が起こり、方針を変更してへその緒を子宮に押し戻す一方、胎児の足から逆子を牽引し、産道から胎児を娩出することに成功しました。
もしこの妊婦さんが、救急車で分娩になったり、最初に一般の病院の救急に運ばれていたりしたら、赤ちゃんは助からなかったと思います。産科の救急はその場での素早い診断と適切な処置が求められる領域なのですが、そういった対応ができる産科医は少ないため、緊急時にそのような医師に処置してもらえるとは言い切れないのです。
産科救急に運ばれるような危機的状況を回避することができるか、できるところは自己防衛をしていくことが非常に重要になってきます。