当時、西ドイツマルクと東ドイツマルクをブラックマーケットで両替すると20対1ぐらいの交換比率だった。しかしコール氏は4000マルクまでは1対1、4000マルク以上は1対2という交換比率での通貨統合を決めた。いわば東ドイツの人々の資産を10~20倍底上げしてあげたわけだ。東ドイツの生産性は西ドイツの半分程度だったにもかかわらず、労働者の賃金を同一にする政策も実行した。

東ドイツ優遇策はうまくいったとはいえないが……

インフラ格差もひどかった。ベルリンの壁崩壊前に西から潜り込んで東ドイツを見て回ったことがあるが、石炭産業のせいでどこの街も煤けて薄暗く、供給不足でマーケットにはモノがない。ヒトラー自慢の飛行機が離発着できるアウトバーン(ハイウェイ)もデコボコ。そんな東ドイツの復興財源として、コール氏は連帯税を91年に導入した。当初は所得税、法人税の税額の7.5%、98年以降は5.5%の連帯税をドイツの人々は今も払い続けている。

コール氏の東ドイツ優遇策は決してうまくいったとはいえない。通貨統合と労働コストの上昇で割高になった東ドイツの製品は売れなくなって多くの企業が倒産した。

一方、復興資金の調達でドイツの財務状況は悪化したし、統一の興奮が冷めるとともに連帯税などの復興負担を強いられることへの不満も高まっていった。結局、コール氏は98年の連邦議会選挙に大敗、5期16年の長期政権にピリオドが打たれた。

しかし、後から振り返れば、コール氏の決断がなければ東ドイツがあれだけのスピードで復興することはなかったと思う。私が訪れたときには約40%だった旧東ドイツ地域の失業率は今やその4分の1程度に縮小し、完全雇用に近づいている。多少の経済格差は残っているが、世界最強のドイツ経済にガッチリ組み込まれているのだ。

ボンからベルリンに首都を移転

統一ドイツの首都を西ドイツの首都ボンからベルリンに移したこともコール氏の功績だろう(正確にいえばベルリンとボンで首都機能を分散した)。もともとドイツ基本法ではボンは一時的な首都であり、本来の首都はベルリンだと規定されていた。しかしベルリンはヒトラーが世界首都としていた地であり、ベルリンへの首都移転には国内外で反対する声があった。

連邦制のドイツには100万人規模の大都市が少ない。フランクフルトで73万人くらい。350万人都市のベルリンは例外的だ。実際、ベルリンに行って目抜き通りのウンター・デン・リンデン通りを散策して、ブランデンブルク門などの歴史的建造物や大きな広場、近代建築が織りなす景観を目の当たりにすると「21世紀の世界の中心はここでもいいかな」と思わせる。ロンドンやパリ、北京にも引けを取らない世界都市だ。