『家族に乾杯』と『ブラタモリ』の違い
『家族に乾杯』と『ブラタモリ』(ともにNHK総合)の違いはそれを浮き彫りにしている。
番組がコラボレーションし、同じ場所に訪れたときも、「同じようにブラブラしているようで全く違う番組なんですよ。アナタ(鶴瓶)の方は水平の番組で、こっちは垂直の番組」とタモリが言うように、二人はまったく別の方向へと進んでいった。
タモリは街の歴史や地形の変遷などに興味を示し、鶴瓶はそこにいま住んでいる人たちをフォーカスしていく。
「僕は死んでる人よりも生きてる人の方が大事やねん。だから、この人がここで死んだとかはどうでもいいわけ。“この人が今面白い”ということが大事。それと、何か大それたことをしてスポットが当たる人よりも、そうじゃない人」
例えば、姑や夫のために一生懸命陰で支えているような人たちにスポットを当てることが大事だと。
タモリも、『家族に乾杯』などでの鶴瓶の一般の人たちへの接し方に対し、「彼は人間が大きい」と語っている。
「人を見る眼差しが優しい。だから人にスッと入っていける。僕は人間がちっちゃいし、どちらかと言うと軽く人間が好きじゃない(笑)。(略)だから本当に全体的な人間力で彼には勝てないなと思いますよ」
普段もテレビも変わらず「普通」のまま
一方、鶴瓶はタモリの印象をこのように語っている。
「テレビで知りおうたけど、普段も普通にいれるんですよ、変わった人ですよ、あの人」
テレビの中でも、日常生活でも「普通」だというのだ。
ビートたけしや明石家さんまは、会うといまだに緊張するという。しかし、タモリだけは緊張しない。
それは普段もテレビも変わらず「普通」のままだからだ。
そんなことは普通ではあり得ない。
「普通の普通は狂気」なのだ。
思えば、鶴瓶もそうだ。
相手に緊張させず、普通のままテレビに出ている。
けれど、そんな鶴瓶も最初はそうではなかった。
「いかに自然にしゃべるかっていうのを目指してやってきた」という鶴瓶。ラジオではそれは早々に実現した。だが、テレビではなかなかうまく行かなかった。
「テレビはあかんかった。ラジオは良かったけどね。だからラジオみたいにしゃべれるテレビはないかな? ってずっと思ってた」
テレビの中で「普通」のまま「自然」にしゃべること。
そのやり方を鶴瓶は「テレビの師匠」であるタモリを間近で見ることで学んだのではないだろうか。
『いいとも!』「グランドフィナーレ」のスピーチで鶴瓶はタモリを「芸人にとって港みたい人」と喩えた。その真意を自身のラジオでこう語っている。
「(明石家)さんま、ビートたけしは、今でもテレビで攻めてるんですよね。タモリさんは、遊んでるんですよ。いつまでも遊んでる。だから、芸人じゃないんですね。だから、(港のように)寄れるんです。芸人を一番わかってる素人のおじさんなんですね。遊んでるんです。本当は芸人よりもスゴい人だと思いますよ。だから、僕らも相談……というか、何かあったら感じてくれるんでしょうね」