ボクシングに恋して、のめり込む
2001年5月、池山さんは岡山市内に開設された「フジワラ・ボクシングジム」に入会した。
「その半年前からずっと見学はしていましたが、右膝を捻挫していて、運動できなかったので」
その原因は、スノーボードで滑降中の転倒によるものとか。そんな彼女の左腕をふと見やると縫合痕があり、「こっちはバイクでコケたときの傷です」と、苦笑い。どうやらスピード系のスポーツに魅かれるタイプらしい。
「ボクシングジムって、どんなことをやるんだろう、何か面白そう、という好奇心で入会しました」
すると、いきなりグローブの装着方法を教わり、会長が両手にミットをはめ、リングに上がって、「『ワンツー(パンチ)はこうやって打つんだ』と教えてもらって、ミット打ちをやりました」。
構えるミットめがけてパンチを当てれば、パァン、と乾いた音とともにミットが弾かれる。
「すごく気持ちがよかった。これまで味わったことのない快感でしたね。それが魅力で、毎日、通いました」
ジムでのトレーニングメニューは、ストレッチ、なわとび、シャドーボクシング、サンドバッグ打ち、ミット打ち、整理体操。まだ一般会員の池山さんには減量もなければ、ロードワークもなかった。
「ミット打ちの次にマス・ボクシングを始めました」
マス・ボクシングとは、空手における「寸止め」のことで、パンチを当てないように、リングでおこなう“演習”のこと。
そうこうするうち、同じジムに女子プロボクサーがいると知って、「単純に対人練習の延長で実戦もやってみたい、と思って挑戦したんです」。
下北沢に行けば、プロになれる
東京・下北沢にある山木ジムへ行けば、プロになれる、と聞いて池山さんは上京する。この山木ジムは日本女子ボクシング協会(JWBC)を主管していた。
ちなみに男子の場合、JBC(日本ボクシングコミッション)が、プロボクサーの認定から、ルールなどを主管し、JPBA(日本プロボクシング協会)が興業面での統括をしている。
ところが、当時、女子プロボクシングはまだ競技人口が少ないうえ、興業としても成立が難しく、統括する団体もJWBCくらいしかなかったという。
「プロ試験といっても、筆記試験はなくて、同じ階級の選手と何ラウンドかスパーして『じゃ、キミ合格』って感じでした」
しばらくして、JWBCからライセンスが発行された。晴れて池山さんは「女子ミニフライ級」(47.627kg)プロボクサーに認定されたのである。
「私は、自分の実力がどのくらいなのか、どれだけやれるのか、知りたかった。そのために、試合したい、という一心でした」
ほどなくデビュー戦が決まった。2003年11月30日、場所は「ヴェルファーレ」(07年閉鎖)。東京・六本木の「ディスコ」で知られたイベント会場だ。
対戦相手は、上村里子選手。4回判定(3対0)で、池山さんは初戦を白星発進。
「すごく緊張しました。頭の中が真っ白になって、何をしたか、まったく覚えていません。判定の結果さえ、記憶にないです」
当時の藤原会長からは、「おまえは器用なボクシングなんてできないんだから、手数でいくしかない」と、がむしゃらにパンチを繰り出すファイター・スタイルを叩きこまれた。それは初戦から現在まで一貫しているという。