比良野智恵子さんは子どもの頃、町工場を営んでいた父親に連れられ、競艇場に行くことがよくあった。場所は東京・平和島。3人の兄妹と父親の4人で訪れたその場所は、いまでも彼女の原風景である。
水しぶきを上げて競い合うボートが、大きなエンジン音を響かせながら目の前を通り抜けていく。
「何番? 何色を応援すればいいの?」
彼女が聞くと、父親は言うのだった。
「赤だ」
「よし、赤、頑張れ!」
ゴールが近づくに連れて、周囲の大人たちの興奮が増す。父のベルトをしっかりとつかみながら、彼女は固唾(かたず)をのんでレースの行く末を見守った。舟券が的中すれば、帰り道にアイスクリームを買ってもらえたり、夕食が豪華になったりするのもうれしかった。
当時、競艇界に田中弓子という選手がいた。「競艇界の山口百恵ちゃん」と呼ばれて人気を博し、浜名湖競艇場での「第1回女子王座決定戦」を制した人だ。ボートレースでは男女の選手がともに同じレースを走る。ある日、彼女が出場したレースを見ていたとき、父親はまだ幼い比良野さんに言った。
「いま、先頭を走っているのは女なんだぞ。なあ、チエ、おまえにもできるんじゃないか?」
父親からすれば、娘とのちょっとした会話にすぎなかったのだろう。だが、男性選手と互角に戦う田中選手の姿を見た彼女は、「すごいなあ」とその走りに釘付けになった。以来、競艇の選手になることが、自身の夢になった。
初の女性実務者としてボートレース界に
「ただ、視力が悪かった私は、選手養成員として競艇学校に入れなかったんです」と比良野さんは振り返る。
好きだったスポーツを仕事に活かそうと、体育大学に進学して一度は体育教師を目指した。ところが、就職活動をしていた1990年、分厚い就職案内をめくっていたとき、「東京都競走会」(現在の日本モーターボート競走会)の求人に気づいたという。彼女は夢だった競艇の世界で働ける道があることを知り、さっそく応募した。
それは競走会にとっても、実務者としてほぼ初となる女性職員の採用だった。女性選手が増えてきたことに合わせて、女性の職員を徐々に採用し始めた時期でもあった。