幼き頃、競艇好きだった父と週末ごとに過ごし、気付けば競艇選手が夢になっていた。視力が足りず選手は諦めたが、事務職として就職し、審判員、検査員としてレースに携わってきた。2016年、女性初の競技長となった。

比良野智恵子さんは子どもの頃、町工場を営んでいた父親に連れられ、競艇場に行くことがよくあった。場所は東京・平和島。3人の兄妹と父親の4人で訪れたその場所は、いまでも彼女の原風景である。

日本モーターボート競走会 江戸川支部 競技長 比良野 智恵子さん

水しぶきを上げて競い合うボートが、大きなエンジン音を響かせながら目の前を通り抜けていく。

「何番? 何色を応援すればいいの?」

彼女が聞くと、父親は言うのだった。

「赤だ」
「よし、赤、頑張れ!」

ゴールが近づくに連れて、周囲の大人たちの興奮が増す。父のベルトをしっかりとつかみながら、彼女は固唾(かたず)をのんでレースの行く末を見守った。舟券が的中すれば、帰り道にアイスクリームを買ってもらえたり、夕食が豪華になったりするのもうれしかった。

当時、競艇界に田中弓子という選手がいた。「競艇界の山口百恵ちゃん」と呼ばれて人気を博し、浜名湖競艇場での「第1回女子王座決定戦」を制した人だ。ボートレースでは男女の選手がともに同じレースを走る。ある日、彼女が出場したレースを見ていたとき、父親はまだ幼い比良野さんに言った。

「いま、先頭を走っているのは女なんだぞ。なあ、チエ、おまえにもできるんじゃないか?」

父親からすれば、娘とのちょっとした会話にすぎなかったのだろう。だが、男性選手と互角に戦う田中選手の姿を見た彼女は、「すごいなあ」とその走りに釘付けになった。以来、競艇の選手になることが、自身の夢になった。

初の女性実務者としてボートレース界に

「ただ、視力が悪かった私は、選手養成員として競艇学校に入れなかったんです」と比良野さんは振り返る。

好きだったスポーツを仕事に活かそうと、体育大学に進学して一度は体育教師を目指した。ところが、就職活動をしていた1990年、分厚い就職案内をめくっていたとき、「東京都競走会」(現在の日本モーターボート競走会)の求人に気づいたという。彼女は夢だった競艇の世界で働ける道があることを知り、さっそく応募した。

それは競走会にとっても、実務者としてほぼ初となる女性職員の採用だった。女性選手が増えてきたことに合わせて、女性の職員を徐々に採用し始めた時期でもあった。

ボートレース界では、実務者も選手と同様に競艇学校で1年間の研修を受け、寮生活を送る。研修ではボートやエンジンの構造を学び、実際に乗艇の練習もする。研修を受けた後、彼女が最初に務めたのは、思い出深い平和島競艇場での検査員の仕事だった。

「検査員は選手の体にけががないか、ボートとそれに取り付けるモーターに異常がないかを調べるのが主な仕事です。それからレース中にメカニカルトラブルがあったとき、原因を究明するのも大切な業務。ボートレースは、ボートとモーターと選手が三位一体となり、しっかり整って初めて成立するものです。その基本を第一に意識しながら働いてきました」

実際の川でレースをする江戸川競艇場は、天候や航行する船の影響も大きく、レースが始まると常に気が抜けない。臨機応変にレースの進行を判断していく。

だが、選手たちにとっては見慣れない女性の検査員である。年上であるうえに屈強な彼らの中には、「おう、彼女。本当に研修を受けたの?」と比良野さんを軽くあしらう者も多かったという。

選手を指導し、ボートのコンディションをチェックする検査員は、レースを成立させる責任がある。先輩の検査員は、時に選手に厳しく接することもあった。選手には中学を卒業してすぐにボートレースの世界に入った者もいれば、70歳を過ぎても現役で走る者もいた。多様な背景を持つ相手と渡り合うには、実務者の側にもそれ相応の迫力が必要だった。

「女だからってなめられるなよ。ビシッと言ってやればいいんだ」

先輩はことあるごとにそう言ったが、まだ23歳の新人で初めての女性検査員である彼女に、先輩たちの真似はなかなか難しかった。

「選手だって、ずっと年下の小娘にワーワー言われたら、頭にくることもあるでしょう。なので、私は自分のカラーでやっていくことにしたんです」

(上)全国に競艇場は24カ所あり、競技長は1人ずつ。その中でも比良野さんは唯一の女性だ。(下)レース中は手放せないレシーバー。随時現場から選手や水面の状態などが報告される。

例えば、選手が整備場で工具などを探していれば、先回りして「これを探していたんですよね」と手渡す。また、当時はスクリューの形状が鋭利だったため、流血をともなうけがも多かった。医務室では医師の補助を迅速に行うことも心がけた。そうした気遣いや現場を一つひとつ積み重ねながら、けがを押してまで出場しようとしていたり、反対に体調の不良を大げさに訴えたりする選手には、「ダメなものはダメ」と毅然(きぜん)と告げる――。

「そうやって『あ、あいつもちょっとシッカリしているな』と思ってもらう。そのうち、『彼女』が『検査員さん』に変わったんです。少しずつではあるけれど、受け入れられているんだと実感しました」

同時に実務職の先輩にも多くを学んだ。12ある最終レースを終えた後の飲み会を、彼らは「13レース」と呼ぶ。仕事を終えた後のその「13レース」で、ときどき会話に出る仕事のコツを注意深く聞いたものだ、と彼女は笑う。実務職の同期の男性と結婚したのもこの頃のことだった。

臨機応変な判断が問われる江戸川競艇場での試練

以後、比良野さんは20年以上のキャリアを歩んできたが、そのなかで大きな転機となったのは98年、現在の東京・江戸川競艇場に審判員として異動したときだったという。

全国に24場ある競艇場の中で、同競艇場はレースが河川内で行われる唯一の場所だ。開催中にタンカーや工事船が通過することもあるし、風向きや川の流れにも影響を受ける。

「常に天候を見ながら水面の状況を監視して、舟券の締め切りを延ばすことは日常茶飯事。レスキュー艇などで『波消し』をするかを判断する力も、江戸川の審判員には求められるんです」

(左上から時計回りに)現場に下りて水面のチェックとともに、選手やボートの様子もチェック。/レースが始まる前に作業をしながらパパッとランチ。/レース中は、監視席に座って細かくチェック。/比良野さんのデスクは、レースが真下に見下ろせる位置。

江戸川競艇場では水面の動きを深く理解しながら、雨雲や風向きに意識を払って早めに様々な判断を下さなければならない。この競艇場での仕事に、彼女は醍醐味(だいごみ)を感じた。

「江戸川は複雑な分だけやりがいがあります。ここでの経験は大きな自信につながりました」

以後、彼女は3年間の審判員を務めた後、平和島と江戸川を異動しながら、副審判長や審判長といった役職に就いていくことになる。現在は江戸川で検査員のトップである競技長を務めるが、それらはいずれも女性として初めての立場だった。

「最初の頃、一生懸命に仕事をしていると自分では思っていても、『女だから』の一言で済まされてしまうときもありました。でも、いまは女性の実務者も全国で増え、それが当たり前の職場の風景になりつつあります」

だからこそ、「第1世代」の自分が、女性初の競技長としてしっかりと役割を果たさなければならない。彼女はいま、改めて気を引き締めている。

(上)多摩川競艇場の競技長を務める夫とはなかなか休みの日が合わないが、合うときには親族一緒に旅行を楽しむことが多い。(下)愛犬のパグ1匹。すぐ近くの実家でも2匹飼っており、一緒に散歩に行くこともある。日々の癒やしとなっている。

▼比良野さんの24時間に密着!

5:00~5:30 起床
5:30~6:00 犬の散歩
6:00~7:00 犬の世話、弁当作り、夕食準備
7:00~8:00 夫見送り、身支度
8:00~8:30 出社
8:30~9:00 点呼
9:00~9:30 執行会議
9:30~10:00 水面監視
10:30~11:00 昼食
11:00~17:00 レース開始/競技の監視、情報の入力、事故などへの対応
17:00~18:00 退社
18:00~18:30 犬の散歩
18:30~23:30 晩酌をしながら夕食
23:30~05:00 就寝