「有名大学でなければ、大学に進んでも意味がない」「いまは学歴より『手に職』が重要だ」。よくそういわれるが、いずれの認識も間違っている。有名大学でなくても、成績が優秀でなくても、大学で勉強した人ほど所得は増えているからだ。では、なぜこうした誤解が拡がっているのか。東京大学の濱中淳子教授が考察する――。
「ニッポンの学歴言説」を疑う
最近、与野党で教育費の無償化をめぐる議論が活発になっている。誰もが希望すれば学ぶことができる環境を――その聞こえはいいが、こと大学教育の無償化に関していえば、世論の大勢は否定的な見解にある(※1)。「とりあえず進学するという人も多いなか、なぜその教育費を公的に賄うのか」。そして、併せて示されるのが「もはや大学は多すぎる」という意見だ。
※1:矢野眞和・濱中淳子・小川和孝『教育劣位社会――教育費をめぐる世論の社会学』(岩波書店、2016年)で詳しく論じているので、参照していただきたい。
一昨年の冬、新卒採用面接を担当したことがある企業人にアンケート調査を行った。そのなかに含めた質問項目「『大学は多すぎる』と思うか」について、「そう思う」と回答した者の比率は8割弱。かなりの高さである。
しかし、急いで指摘しておくべきは、データをみる限り、大学進学の経済的効果はむしろ高まっていることだ。詳しくは、こちらの寄稿(「平均年収1400万円、『開成・灘』卒業生とは何者か」http://president.jp/articles/-/21720 )をご覧いただきたいが、「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省)で学歴別生涯賃金(男子、以下の値も同様)を算出すると、1975年の時点では、中卒-高卒-高専・短大卒-大卒間の賃金格差はほぼ等間隔だった。それが2010年には、大卒の「一人勝ち」になっている。技術革新や情報化、グローバル化といった社会経済的変化のなかで、大卒に対する需要が高まっていることが示唆される。
大卒の価値が上昇しているにもかかわらず、「大学は多すぎる」と思われている。このように、日本では、実態と乖離しつつ学歴が理解されていることが少なくない。現象の一部が極端に語られることもあれば、印象論にすぎないものまである。
本連載では、エビデンスに基づいた学歴論を取り扱うことにしたい。私たちが当たり前のように受け止めている言説は、データからみて妥当だといえるのか。「ニッポンの学歴言説を問う」――1回目である今回は、文系不要論に切り込む。
文系学部は本当に要らないのか
2015年6月8日、文部科学省は全国の国立大学法人に対し、教員養成系学部や人文社会科学系学部の廃止や組織改編を求める通知を出した。社会的要請を踏まえた改革を促したいという意図からのものだったというが、「廃止」という言葉のインパクトが強すぎた。通知が出されてからというもの、「文系不要論」に物申す有識者たちの声がマスコミや出版界などで取り上げられるようになる。
たとえば、東京大学副学長だった吉見俊哉氏は、著書『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)のなかで、「文系の知は、既存の価値や目的の限界を見定め、批判・反省していくことにより新しい価値を創造することができる知」(110ページ)だと指摘する。そのうえで「そこには(理系に特徴的な手段的有用性ではなく)価値創造的な次元があり、それは長期的に『役に立つ』知」(同ページ)だという。なるほど、価値多元性が重視される昨今である。有識者の目からすれば、文系学部の意義はますます高まっているといえるかもしれない。
とはいえ、一般社会の感覚は、むしろ文部科学省の通告に近かったのではないか。吉見氏自身、同書のなかで、文系軽視の姿勢は戦中・戦後から続くものだったと述べている。「先進諸国に対抗するためには技術革新に寄与する理系を拡充したほうが良い」「理系は儲かるが、文系は儲からない」「必要ないとまでは言わないが、実際のところどれほど役に立つのかわからないのが文系だ」――中央官庁といえども、独り善がりの政策を提示することはできない。今回の通告は、私たちがおぼろげに抱いていた感覚と文部科学省の判断がリンクしたからこそ、形になってあらわれたものだったように見受けられる。
では、こうした文系不要論に対して、データは何を教えてくれるのか。ひとつの検証結果を紹介しよう。