「人による」は配慮なのか、思考停止なのか

「○○による」という感想は、何も述べていないに等しい。しかも、会話を終了させる。こういった会話を想像してみよう。

【会話A】
「ウチの会社って面白い人多いよね」
「人による」
「……」

【会話B】
「ホント、○○社のクリエイティブってぶっ飛んでいて面白いよね」
「人による」
「……」

本人は冷静な論者のごとく「人による」砲をぶっ放しているのかもしれないが、この魔法の言葉を返されてしまうと、意見を言った人間は自分がバカになったような気分になる。そして、「『人による』男にはもう質問をしないぞ」と決めてしまうのだ。

意見を表明する側は、もちろん「人による」のは分かりつつも、同意か反論をしてもらいたいし、そこから何らかの新しいネタを相手から引き出したいと考えている。だから、【会話B】についての回答としては、「人による」と言いたい気持ちを抑えて「ただし、××という商品のCMはすげーつまらなかったよな」と返せば、「あぁ、確かに! あれは商品情報を詰め込み過ぎていたよな」といったやり取りに発展する。

基本的に人は、誰かに喋りかける場合「会話のキャッチボール」(死語だな)をしたいと考える。「人による」を乱発すると、いつしか声をかけてもらえない人物になってしまうだろう。「牛肉はうまい」と言うだけでも「牛による」と返されるかもしれないし、「トンコツラーメンはうまい」と言っても「店による」と返されてしまうのではないか、と警戒されるようになる。

「人による」というコメントが高評価を得るこの状況は、もしかしたら過去の経験が影響しているのかもしれない。自らの意見を明確に言い切って、それを猛烈に批判されたが故に、以後、言葉に配慮しようと考えたのか。もしくは、そもそも考えることを放棄したということなのかもしれない。