立ち位置が難しい「第三極」
筆者は「第三極」の一翼を担っていた、みんなの党の代表であった渡辺喜美衆議院議員(当時)の政策担当秘書を、2012年の第46回衆議院議員選挙での党の躍進・拡大から2015年末の分裂までの1年強務めた。
その詳細については拙著『仮面の改革派・渡辺喜美』に詳しいが、「第三極」の本質やその崩壊の過程を間近で見てきた一人である。都市部を中心に、多くの有権者からの期待と支持を集めたみんなの党。結党宣言の表現を使えば、自民党でもない民主党でもない第三の勢力の糾合と自民党でも民主党でもない有権者の受け皿を目指した、「第三極」の本流と言ってもいい存在であった。
そんな「みんなの党」も政治が大きく揺れ動き、特に一強他弱と言われるような状況に至って、政策的にブレ、結党の精神を曲げて自民党に擦り寄って、分裂して崩れてしまった。
2013年12月、衆参合わせて14人が離党して結いの党を結成して分裂。その後当時代表であった渡辺喜美衆議院議員(こちらも当時)が、自らの政治資金を巡る疑惑の責任を取る形で辞任し、当時党幹事長であった浅尾慶一郎衆議院議員が代表に就任した(薬師寺道代参議院議員は出馬する意向があったようだが、周囲に止められたとも聞く。賢明な選択と言えるだろう。当時の党の実態もさることながら、1期目の議員に代表として党の運営を行うことなどできようはずがない)。
しかしその後、「与党再編」なる摩訶不思議な概念を掲げた渡辺喜美前代表が浅尾執行部を執拗に攻撃するようになり、11月には執行部は解党を決定。解党直前になって離党して民主党に流れる者、2013年12月の段階での離党のタイミングを逃したものの、党の混乱を受けて離党して維新の党(当時)へ入党した者、解党まで党所属議員であり続けた者の大まかに3つに分類できるが、見事にバラバラになっていった。参議院では、日本を元気にする会の結党、無所属クラブ(院内会派)の結成、日本維新の会(当時)から分裂した次世代の党へ入党の3つに分派した。
この党についてとやかく言うのは本稿の趣旨ではないが、同党の結党から躍進、そして分裂、解党への経緯を改めて見てみると、「第三極」というのは、自民党や民主党、現在であれば民進党という政党があった上で成り立つ、立ち位置や舵取りが非常に難しい存在であるように思う。
それは存在意義を常に見直していかなければいけないということでもあり、単に「改革」を標榜し、「対案」や「提案」を出していればそれでいいという話でもない。対立軸や争点も刻々と言ってもいいぐらいの速さで変化し、それ以外にも大小さまざまな課題や問題が不規則に発生する。国会会期中の法案をめぐる対立や政府内・与党内の不祥事はそのわかりやすい例であろう。