生きている鯵は青魚にあらず
初めて小説を書いてみた方の多くが経験するのが、書き出してはみたものの、なかなか終われないということです。一編の作品を構築させるだけの「世界観」が、まだ組み上がっていないのです。単なる思い込みでは、小説は終わりません。どこかで普遍性とつながっていなければならないのです。一読すると独断と偏見に満ちているようでも、その本が小説として終わっているとしたら、その本は大勢の人々を得心させるに足る普遍性を備えているのであり、つまりは「世界観」を備えています。
世界観というと大袈裟なようですが、つまりは誰のものでもない自分の考えです。持っていたほうがふらふらせずに済んで生きやすいし、楽しいと思います。味わい深い60代にするためにも、自分の頭で考えることが大事ではないでしょうか。本で読んだ借り物の知識や他人の伝聞からは、それは生まれません。しっかりと自分の頭で考え抜いた末に育ってくるものです。
私自身について言えば、たまたま出版社で企業広告のコピーライターを務めていたことで、考えざるをえなくなりました。普通の記事と違って広告の文章は、「読まれない」「信用されない」ことを前提に書く必要があります。広告だから、まず読まれない。なんとか読んでもらっても信用されない。コピーライターのミッションは、この2つの壁をクリアすることともいえます。文章技術が高いだけでは務まりません。
美人だけど飽きられている女優さんを守り立てるとしましょう。いくらレトリックを駆使して美しさを称えても意味がありません。縦横斜め、あらゆる角度、距離から対象を観察して、一番彼女が輝く新たな切り口を見つけなければならない。そうした「絶対に一つだけのアングルから物事を見ない」で考え抜くという姿勢が、小説に役立ちました。「世間に出回っている通説は、すべていったん洗濯してから自分の辞書に収める」ことは、小説の書き手としてのエチケットであり、マナーでしょう。
たとえば、鯵は青魚とよくいわれますね。でも、水族館で生きている鯵を自分の目で観察すると、銀色です。青いのは死んだ鯵なのです。生きている鯵を語ろうとするなら、銀色の鯵を語らなければならない。通説を鵜呑みにしないというのは、60代になろうが、70代になろうが、物事をしっかりと考える際の基本的な構えであると思います。