埋もれていた記憶を一言で呼び覚ます

歳時記は1年を春夏秋冬と新年に分け、さらに時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に季語を分類しています。これってまさに雑談のテーマそのものでしょう。よし、じゃあかっこいい季語をたくさん覚えよう、という話ではなくて、その季語からの連想をまず楽しんでほしいと思います。歳時記をめくっていると、季語を見ているだけで自分でも思ってもみなかったことを思い出すことがあります。

季節感を意識することで日常会話に深みと彩りを加えるための、これまでにない雑談指南書。野暮な青年が「歳時記」という 最強の雑談データベースを使いこなす風流な先輩に鍛えられて会話のセンスを磨いていくストーリーです。読むだけで言葉が 豊かになる一冊。

以前、芸人で作家の又吉直樹さんに俳句を教えていたことがあるのですが、あるとき新年の季語をつかった句をつくるという宿題を出しました。又吉さんは、新年の季語にどんなものがあるのだろうと歳時記をめくっていたら、幼い頃の実家の正月を思い出したそうです。炬燵があって、ミカンがあって、お父さんがいつもの場所に座っておられて、みんなで福笑いをやって……そんな風景です。それでこんな俳句ができました。

父の足裏に福笑いの目

歳時記を開かなければ、お正月といえば東京で一人で迎える暗い新年のイメージしかわかなかった、と又吉さんは言っていました。福笑いなんてやったことすら忘れていたと。そういう埋もれていた記憶や、物語を一気に呼び覚ます力が季語にはあるんです。

そんな季語を意識した会話に親しむための本、『春夏秋冬 雑談の達人』をこのほど出版したのですが、その本をつくりながら、僕もおおいに記憶を刺激されました。たとえばラムネやソーダ水、というのは夏の季語なのですが、バリエーションとして「砂糖水」という季語もあります。いまのように清涼飲料が何種類もなかった時代、冷水に砂糖を溶かして飲んでいたんですね。その「砂糖水」という一言で、子供の頃、川に魚を釣りに行ったことや、それを透明になるまでクルクルとかき混ぜて飲んだことなどがありありと思い出されました。ふだんはぜんぜん思い出さないような昔のことです。

こんにちは、はじめまして、といった挨拶から一歩だけ踏み込んだくらいのなにげない会話のなかにも、人の記憶や物語に直結するようなキーワードがあります。それが往々にして季節の言葉なんですね。僕はときどき「つくらない句会」という、参加者は俳句をつくらないでいい句会を開くのですが、そのなかで「ごみごみと降る雪ぞらの暖かさ」という句を選んだ人が何人かいました。話を聞くと、雪国出身の人たちでした。大きな雪片が舞うさまが「ごみごみしている」とか、晴れている日より雪の日のほうが「暖かい」という感覚は、雪国育ちの人には肌感覚としてわかるようでした。ちなみにこの句の作者は、宮沢賢治です。

そう考えると雪という言葉ひとつとっても、人によって発想するものが違うということです。季語を媒介にして相手の深い記憶や思い出が呼び覚まされることで、その人の思わぬ面が見えたりします。たとえ一言、二言の会話でもその人固有の物語を引き出すことができれば、深く印象に残るものになるでしょう。