日本人特有の支配されやすい気質

それに加えて、日本人特有のもともとの気質も危険を孕んでいる。素直で人を疑わない、忠誠心が高い、初志貫徹などは、日本では好ましい特質とされることが多い。しかしこのどれもが、裏を返せば支配されやすい人の傾向にもなってくる。なかでも、物事を疑う能力が欠けている人は要注意。というのは、どんな話に対しても「その話は本当か」「(本当だとしたら)その方法論はふさわしいか」「正解は1つではなく、ほかにもあるはず」と多段階で疑ってかかることが、支配されない思考のコツになるからだ。

ところが、日本ではまず教育の中で疑うことを教えない。教科書に書いてあることは全部本当だとし、それをまるごと記憶すればいいという授業が成り立っている。本来ならば、歴史教育などはできごとに対していくつもの解釈があるもので正解はひとつではない。南京大虐殺であろうが従軍慰安婦であろうが、まずは「やったかもしれないし、やっていないかもしれない」と考えるスタンスが、認知的には成熟度が高いのである。

特に大学教育では、そういったいくつかの解釈をさまざまな角度から検討しディスカッションを行うという授業があるべきだと思うがなかなか行われていない。ほとんどの学部で自説に拘泥する研究者が教授という権威となり、学生はその自説を刷り込まれているにすぎない。

すると社会に出ても、上司の話、社長の訓話、経済評論家のコメント、テレビのニュース番組の解説、コマーシャリズムなどを疑いもなく素直に信じるくせがついている。特に権威のある人の話はたやすく信じてしまい、「かくあるべき」「この道しかない」という思考の奴隷となってしまうのだ。

認知的に成熟度が高い反応とは、もっともな学説を聞かされたときに、「本当にそうなの?」「ほかの説があるのではないか?」と自問できることだ。その発想があってこそ、より検証材料を得るためにたくさんの情報を集めようと工夫する。それが、何者にも支配されず、常にニュートラルな思考でほかの方法を試すことへと繋がっていくのだ。