中国語には「舎得(シェダ)」という熟語がある。「惜しまない」という意味だ。否定表現は「舎不得(シェブダ)」となり、「惜しいと思う」という意味だ。

漢字の面白さは、一つ一つの文字に意味があることだが、それぞれの文字のもつ意味から理解すると、「舎得」は「捨てることによって得ることができる」となる。つまり惜しまずに思い切って捨てれば、逆に得ることができるのだ、という意味だ。これは仏教からきた言葉のようだ。仏教では「舎得」のことを「あげてこそ、もらうことがある」と説いている。

もう一つ、かの孟子が次のような発言をしている。「魚は我が欲しいものだ。熊掌(熊の手)も我が欲しいものだ。二者を同時に得ることができなければ、魚を捨てて熊掌を取る」。やがてこの話は「魚と熊の手は同時には得られない」ということわざに昇華し、中国人の生活に溶け込んでいく。『トレードオフ』を読んだとき、私はこれら2つの中国語表現を思い浮かべていた。

著者のケビン・メイニー氏は、企業の商品開発、ビジネスモデルを議論するとき、常に上質をとるか、手軽をとるかという二者択一的視点で問題を提起する。現在、電子出版で大きく脚光を浴びているアマゾンの電子書籍リーダー・キンドル、ハイビジョンに適した次世代のDVDの新規格ブルーレイ、ラグジュアリーブランドのコーチなど多くの商品やビジネス戦略を俎上に載せ、容赦なく分析のメスを入れる。「上質さ」と「手軽さ」の二兎を追ったコーチの路線を「ラグジュアリー業界のマクドナルド」と批判し、どちらにもつかないキンドルやブルーレイなどをこき下ろしている。

一方、手軽なビジネスの典型例としてはカメラ付き携帯電話、MTVなど、上質なビジネスの成功例としては「究極の携帯電話」と見なされるRAZA、音響メーカーのボーズが開発した極上ヘッドホンなどを推した。

上質さと手軽さのどちらかを極めた商品だけが一世を風靡できる。二兎は追わない―それが著者の明快な主張である。

著者は、USAトゥデイのテクノロジーコラムニストを長年務めたのちに、ビジネス誌の専属記者になった。長年、ビジネスを取材してきた著者にとって、同書は記者人生の一つの到達点となったのではと思う。

米国人の著者は、多分「舎得」という中国語も「魚と熊手は同時には得られない」ということわざも知らないだろう。しかし、ビジネスモデルにおいての、商品開発においての二者択一という視点を持ち込んだ同氏の主張は中国の哲学に相通ずるものがある。何かを捨ててしまうから何かを得られるのだ。

自らの考えを主張したい気持ちが強すぎたせいか、同書の一部のビジネス実例は無理矢理取り上げられている感がする。それでも『トレードオフ』は考えさせられた一冊であると、お勧めしたい。