この後、託されたのが、最も重要で難しい問題だ。まず支店の統廃合。北洋と拓銀の道内支店網が合流したとき、合わせて231店に上り、地域的な重複があって、譲渡合意書に「拓銀の25支店を閉鎖する」と明記された。すぐに各部門から約20人を集め、閉鎖候補店に送り、支店長との協議に当たらせる。

どの支店でも、お客には事情もあり、数字で機械的に閉めていっては、迷惑をかけてしまう。口座の移設は丁寧に進め、閉店は3カ月ごとに5、6店にとどめ、1年かけて合意書を満たした。ビルの賃貸契約の解約にかかる違約金や人や設備を移す経費も、かなりになる。北洋に様々な配慮を要請しにいくと、寛容に応じてくれた。地の利がいいとか、まだ新しいとかで拓銀側の店を残し、北洋側を閉めるケースがいくつも出た。

こちらも、思いもしない経営破綻で、動きは止めて時の流れに委ねる姿勢で臨んだら、相手も同様で、突然の出来事で北海道一になるだけでなく、第二地銀で最大の銀行になることになり、自然な流れに任せる構えだったようだ。

もう1つ大きな課題は、拓銀行員たちの身の振り方だ。破綻時には道内に3357人、道外に1813人。北海道出身者もいれば、本州の出身者もいる。北洋に移籍して北海道に残るか、それ以外のところへいくのか。人事部で対応していたが、なかなか決まらず、多くが不安を抱いていた。

そこで、営業企画部の部下たちの希望を聞いた。みんな、大変なときにも、やるべきことを淡々とこなしてくれた。それに報いるには、納得した行き先を確保するしかない。「若手だから、北洋にいかせてくれ」と頭を下げて回る。やるべきことがあふれて、自分の先行きなど、考える暇もない。

拓銀は98年6月の株主総会で解散を決議し、11月13日で営業を終えた。その月、北洋の業務推進部管理役に移籍した。課長級に下がったが、翌年4月には経営管理部の企画第二課長という、経営戦略の推進役を託される。破綻から約1年半、「北海道経済のために働きたい」との思いは、47歳で第二幕へと入る。

「シュウ鱗潜翼、思屬風雲」(鱗をおさめ翼を潜め、思いを風雲に屬す)――泳ぐ魚が鱗をおさめ、飛ぶ鳥が翼をひそめるように、志を持つ者が時節を待ち、しばらく世の中の動きに任せるとの意味で、中国・唐の房玄齢らが選んだ『晋書』にある言葉。逆流や逆風のときに無理して動かず、次の好機を待つゆとりが大事と説き、経営破綻という難局にやるべきことを粛々と進め、志が立つ機会を静かに待つ石井流は、この教えに重なる。