石坂泰三vs岩下文雄の確執

石坂は1949年に第一生命保険から社長として招聘されたいわばよそ者だ。帝国大学法学部を卒業後に逓信省に入省、岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となり、38年に社長に就任する。

戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を打診されたが拒否。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。東芝は当時、大労働争議のため労使が激突し倒産の危機にあった。あえて火中の栗を拾った形となった石坂は、真正面から組合と交渉し、6000人を人員整理し、東芝再建に成功した。

一方で岩下は東芝の生え抜きで重電出身。東芝の中でも重電はエリートコースで「副社長時代に、社内の実務の9割9分握っていた」(『東芝の悲劇』より)という。

一高から東京大学の政治学科を卒業し、東芝の前進、東京電気に入社。1945年には若くして取締役に抜擢され、その後常務、専務、副社長と昇進。1957年に石坂の後を受けて社長に就任した。

「岩下は石坂のように押し出す、恰幅がない。弁も立たない。人前でしゃべることもへたくそである。性格的にはあかるさにとぼしい。……だからといって岩下は、社内では実力者である。再建の功労が石坂に全部規せられたような世間の評判に、不満をいだいた。……二人の仲は、だんだん悪くなっていった。しかし、決定的に悪化したのは、昭和39年の秋であった。石坂は、土光を後任社長に推して、岩下退陣を迫ったのである」(『東芝の悲劇』より)

しかも1962年をピークに東芝は売り上げと利益を急速にダウンさせた。もちろんこれは東芝にかぎらず、日立製作所や三菱電機も同じだったが、問題なのは、ライバル日立がすぐに業績を回復させ、水をあけられたことだった。

「東芝のライバルは、あくまでも日立である。過去もそうであったし、現在もそうである。自動車のトヨタと日産である。東芝の敵は三菱ではなく、あくまで日立である。天下の大東芝を自負するものが、まけいくさになって、いまさら、敵をかえるのはひきょうである。岩下が、連続減配で経営責任をうんぬんされたときに、そのなかに、日立に負けたという意味がたぶんにあったことはうなずけるのである」(『東芝の悲劇』より)

ではなぜ東芝が泥沼にはまり込んでいってしまったのか。三鬼は「東芝の悲劇」の重大原因として、石坂が社長を岩下文雄に譲ったことにあるという。その結果、岩下の側近政治でゴマスリばかりが周りに集まり、有能や人材を登用できなかった。しかも重電の役員たちの暴走が始まる。

当時、重電では大谷元夫副社長をトップに青木孝一、田中俊夫といった役員たちが結束、設備資金の大部分を獲得し、暴走した。この設備投資が東芝にとっては大きな傷となる。