「大東芝」という体質は残った!

なぜ、岩下はこの暴走を止めることができなかったのか。

東芝には1939年に重電の芝浦製作所と軽電力の東京電気が合併し、東京芝浦電気となった。重電と軽電という2つの事業部は対立が続いていたという。

石坂さえも「東芝は、合併、発展、巨大になった会社である。各事業部をエントツに例えれば、大きな事業部が何本も立ち並んでいる形だ。いきおい最高首脳は、その煙を集めて判断する、受身経営に追い込まれる。僕でさえ、この社風に苦労したよ」(読売新聞)と語っている。

さらに石坂は「日立が時勢の流れを見きわめて、締めるときには締めていたのにたいし、東芝は日立に追いつくあせりがから、ひたすら売りまくり戦法にでて、みずから傷を深くした」と批判をしている。

三鬼はこう言う。

「東芝は石坂の表現どおり、エントツが、勝手に煙をはいていた。まさに、合併会社の悩みである。トップは、その煙にあてられて、判断をくもらせてきたわけだ。その代表例が重電の設備投資だったといえる。計画や予算が、事業部の中でねられ、それが上にあがっていくと、調整がなかなかむずかしかったといわれる。いきおい、トップは受身になっていたし、ならざるをえなかった」(『東芝の悲劇』より)

これが景気の悪化で一気に加速したが、派閥の長である岩下は大ナタを振るうことはできなかった。

しかも東芝の名門意識が組織を硬直化し、耳に痛いような情報はトップに届かない組織になってしまい、組織改革ができないような仕組みとなっていたという。

三鬼は東芝には戦前から「大東芝」という意識があり、石坂は経営の立て直しには成功するが、東芝のそうした体質を変えることができないまま、岩下に引き継いでしまった。そこに大きな問題があったことを指摘している。

「人間に歴史が尊重されると同様、企業にも、歴史が尊重され、伝統が高評価される。企業とは歴史、伝統の累積ともいえる。しかし、皮相に考えると、歴史はアカ(垢)の累積である。そして、このアカは、見方によると貴重であるが、へたをするとやっかい千万である。東芝はなるほど天下の一流企業であるが、現在、転落の悲劇がうんぬんされるのは、要するに、悪い意味のアカがたまりすぎたからである」(『東芝の悲劇』より)

まさにその指摘は今の東芝にも通じる。果たして、このアカを取り除くような改革ができるのか、東芝は今、それが問われているのだ。

(撮影=宇佐見利明)
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