必死に挑戦した失敗だらけの歴史

似鳥昭雄の人生は成功の歴史ではない。失敗にまみれながらも、あきらめなかった、挑戦の歴史だ。

最初に家具店を開いたときに、まったく売れず、自分に商売は無理であったと店をたたんでいれば、妻と出会うことはなかった。妻は私以上の度胸と愛嬌を持っている。売り場でニコニコすることが苦手な私のかわりに、妻は商品をどんどん売り、商売は上向きになった。私が経営と仕入れに専念することで、商売は最初の広がりを得た。

新規出店した店の前に、われわれを上回る規模の大型店が出店し、赤字続きで倒産の危機に瀕した。ここであきらめたくないと、わらをもつかむ思いで出かけた米国視察。当時、日本人の年収は米国人の3分の1。だが、家具の値段は日本のほうが3倍もする。米国の豊かさを目の当たりにしたことで、「日本人の生活を豊かにしたい」という大きな「志」が生まれた。その経験がなければ、私はただ家具を売ることだけが目的の男で終わっていただろう。

ニトリがまだ北海道にしか展開していなかった頃に、私は一度、満足しかけた。そんな私に発破をかけたのは社員たちだ。あのときに「まだまだこんなものではない」と思いを新たにしなければ、日本全国、海外を含めて382もの店舗を持つ企業には成長できなかっただろう。

チェーンストア研究団体「ペガサスクラブ」の渥美俊一先生に出会うことがなければ、理論もなく、考えることもなく、「なぜ伸びないのだろう」と頭を抱えながら、やみくもな商売を続けていたことだろう。

ピンチのときには、周りの人の助けを得て活路を開いてきた。これはまぎれもなく運の力だ。しかし、私は決して強運の星のもとに生まれたわけではない。それでもこれだけの幸運に恵まれたのは、苦境にあって、必死にあがいたからだ。たったひとつの成功のカギは、挑戦し続けることである。

挑戦しようと思うから、必死になる。自分の力でどうにもならないから、誰かの力を借りようとする。自分の頭がよくないことを知っているから、そのヒントを得るために、誰よりも現場をよく見ようとすることができるのだ。

海外の工場で生産した製品を輸入して売る。われわれのビジネスモデルは、本来なら円安の状況下において伸び悩み、成績は下がるはずだ。実際、円安が1円進むと15億円の営業減益要因になる。しかし、ニトリは28期連続増収増益を達成し、2016年2月期も順調に推移している。