日本近代における文芸評論を確立した小林秀雄。新潮社における最後の担当編集者だった池田雅延さんを囲んで、主著『本居宣長』を10年かけて読もうという勉強会を、定期的に開催している。
そのメンバーで、この秋、本居宣長が居住していた松阪に出かけた。本居宣長記念館の吉田悦之館長が親切にご対応くださり、さまざまな資料を見せてくださると同時に、興味深いお話をされた。
本居宣長といえば、日本の歴史を記した『古事記』を読解した『古事記伝』の仕事がとりわけ重要である。
当時、独自の文字を持たなかった日本人が、それでも何とか自分たちの言葉で記そうとして工夫した『古事記』の「上代特殊仮名遣」を、宣長は解読した。今で言えば、「夜露死苦(よろしく)」のような「当て字」を用いて、古代の日本人は自分たちの言葉を記そうとしたのである。
『源氏物語』をつらぬく「もののあはれ」の思想を論じるなど、日本人の文化的ルーツを解き明かした本居宣長。この偉大な文化人の事跡を、記念館で資料を見ながら振り返るのは、とても有意義なことだった。改めて、宣長が、幅広い教養に満ちあふれた人だったという事実に驚かされたのである。
宣長の「本業」は、医者だった。小林秀雄の講演の中にも、宣長が、医者をやって受けとったお金を竹筒の中に入れて、それが溜まったら自身の著作を「自費出版」していたという話が出てくる。つまり、宣長は国学者である前に、医者でもあったのだ。
また、宣長は、絵も上手かった。それは、残されたいくつかの「自画自賛」の絵からも伝わってくる。
現代では、自分で自分を褒めるという意味で使われる「自画自賛」。江戸時代には、自分で描いた絵に、自分で絵画に関連した「賛」を書くことを、そう呼んだ。
宣長の「自画自賛」で、最も有名なのは、「本居宣長61歳自画自賛像」であろう。宣長の横顔が描かれ、「しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ朝日ににほふ山さくら花」という、宣長の有名な和歌が「賛」として添えられている。