国連の中のレジームを変えるのが悲願
【塩田】安倍首相は最近、口にしなませんが、「戦後レジームからの脱却」が持論です。
【野田】東京裁判をどう見るかということがありますが、戦後の日本は、それを受け入れて独立を回復し、今日をつくってきました。本当に「戦後レジームからの脱却」と言うなら、「戦後レジーム」とは何かという問題を考えなければならない。
戦後レジームとは実は国連のレジームなんです。国際的にも戦後の日本の平和国家としての歩みは、事実上戦後レジームを脱却してきたが、名実ともにこれを具体化するのは国連改革です。先輩たちはまさに戦後レジームから脱却したいと思い、国連中心主義外交で謙虚に懸命にやってきた。国連憲章の旧敵国条項の削除を目指し、安全保障理事会の常任理事国入りを目指した。残念ながら小泉首相の靖国参拝問題以降、すべての積み重ねが流されました。
【塩田】安倍首相の「戦後レジームからの脱却」とは違うのでは。
【野田】過去の戦争を正当化しようとしていると誤解されると、レジームはまだ必要という話になってしまう。ドイツは迷惑しているのではないですか。日本から「われわれと一緒に」と言われて、また道連れで悪者になるのは嫌だと思っている。ドイツのアンゲラ・メルケル首相もそう思っていると私は見ています。過去の歴史認識にこだわりすぎるよりも未来へ向かうことがより大切です。車の運転も、バックミラーばかり見ていたら事故のもとです。前を向くことが、結果として戦後レジームからの脱却につながる。それが先輩たちの姿勢です。私も、政治家として一緒にその中にいて大事に育てられてきてきた。今はちょっと違う方向に行っている感じがします。
【塩田】ここまでの政治生活の中で一番嬉しかったことは何ですか。
【野田】消費税導入が実現したときです。達成感がありましたね。
【塩田】反対に一番辛かったこと、苦しかったことは。
【野田】いくつかありますが、その一つに中曽根内閣時代の売上税の推進本部事務局長として、歯を食いしばって頑張っている中で、地元で1万人の反対集会で藁人形をつくられた。
【塩田】政治家人生は1972年の衆議院議員初当選以来、すでに42年余に及んでいますが、将来、これだけは仕上げなければと思っていることは。
【野田】わが人生を賭けてやってきたのは、国の骨格というか、財政です。安全保障であれなんであれ、支えるのは財政です。財政が破綻したらアウトです。次の時代にきちんとした国としての形をつないでいくには財政の基盤をどうつくっていくか、それが使命感です。税制と社会保障の制度設計について、道筋はつくっておきたい。
もう一つは日中です。親父(岳父の野田武夫元自治相。日中国交正常化の直前の1972年6月に死去)は日中復交で骨を折った一人だったから、「国交正常化を見るまでは死ねない」と言って亡くなった。そういうこともあって、私も日中問題をやってきた。再び両国間で火花が散るようなことがあってはならないという思いが強い。
衆議院議員・自民党税制調査会長
1941年10月、現在の東京都杉並区生まれ(現在、73歳)。大阪府立寝屋川高校、東京大学法学部卒。64年に大蔵省(現財務省)に入省。岳父の野田武夫元自治相の急死で退職して、72年の総選挙に旧熊本1区から出馬し、初当選。以後、当選15回(熊本2区)。建設相、経済企画庁長官を務めた後、94年に村山富市・社会党委員長の擁立に反発して自民党を離党。自由改革連合を経て新進党に合流した。新進党解党後、小沢一郎党首の自由党に。自民党と自由党の連立で小渕恵三内閣の自治相に就任。自由党分裂後、保守党党首を務め、自民党に復党。日中協会会長も務める。著書は『消費税が日本を救う』。「酒はよく飲む。今も強い」と笑いながら語る。「『十七条の憲法』はイギリスのマグナカルタよりもはるかに古く、あの当時、世界に冠たるもの」と、聖徳太子を尊敬する。