処方箋(1)
憎い相手を赦す

イエス・キリストは十字架に磔になって殺されました。殺したのは当時主流だったユダヤ教の権力者たちです。イエスが病人を治したり、パンとぶどう酒を何倍にも増やしたりと、自分たちにはできない奇跡を次々に起こすので、民衆の支持を失うことを恐れた彼らは、インチキな罪をでっちあげてイエスを処刑します。イエスは自分が殺されるとわかっていたのに、抵抗せず黙って殺された。なぜならその死には、私たち全人類の身代わりとなって罪を引き受ける、贖罪の意味があったからです。

約2000年前のイエスの死によってわれわれ人間の罪はすでに赦されているとキリスト教では考えます。注意すべきなのは、罪が帳消しになったわけではないという点です。罪は赦されたのであって消えたわけではない。われわれが罪びとであることに変わりはありません。

そんな私たちがお互いに赦しあい、信頼関係を築くにはどうすればいいか。非常に難しいことです。たとえば自分にとって腹立たしい人物がいるとする。その人のことがどうしても赦せない。赦すべきだとは思うし、あるときはもうすっかり赦せたような気がする。

しかし再びその人物の気に食わない言動を目撃すると、また腹が立つ。現実の人間とは、こういう混沌としたものだと思います。そういう人間同士の関係に、神と人間との関係を持ち込んでみたらどうでしょう。つまり、その憎い相手のことも神はすでに赦しているのです。そして自分もまた、神に赦された存在です。

世界中で使われている「主の祈り」というものがあります。クリスチャンの人生の指針の一つとなっている有名な祈りです。その中に、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という一節がある。つまり神が自分を赦してくれたように、自分も相手のことを赦そう、と考えるわけです。

このように神と人間との関係を、人間と人間との関係に当てはめて考えるのは、キリスト教の特徴といえます。内村鑑三は「自分や他人を見るのではなく、キリストを見よ」という意味のことを言っています。普通われわれは自分を見つめて自分を鍛えれば何かをつかめると考えるものですが、自分を見ても何も出てこない。かといって他人を見ても、腹が立って仕方ない。