リンクを外すことと「忘れられる権利」

オリジナル情報の削除ではなく、検索サイトのリンクから外すということの意味を考えておこう。

第1点は、どのような情報(リンク)を検索サイトから削除するかという作業を一企業であるグーグルに委ねることは、「表現の自由」侵害にあたるのではないかという疑問である。判決は、そうでなくても強力な検索サイトにさらに権限を与えるようなもので、たとえばジョナサン・ジットレイン(The Future of the Internet、邦題『インターネットが死ぬ日』の著者)はニューヨークタイムズ電子版に「グーグルに『忘れる』ことを強制するな、Don't Force Google to ‘Forget’」と批判する論考を書いた。英上院の委員会も「忘れられる権利はうまく働かないし、合理的でもないし、原理的に誤っている」というレポートを発表している。

第2点は、いくらグーグルの記事へのリンクを外したところで、ウェブ上の情報そのものは消えるわけではなく、原告の名前や情報は決して「忘れられる」わけではないということである。

この2点について、以下、私見を記しておく。

まず第1点。メディアを「編集」という観点から考えると、新聞、テレビ、書籍など旧来のマスメディアは、発行者がその責任において情報を取捨選択して提供し、その真偽に関する一定の責任を負う。これを「編集メディア」と呼ぶと、すべての人が情報発信するインターネットでは、正しい情報もあれば、間違った情報もある、責任の主体は書いた本人だけだという意味で、これは「無編集メディア」である。オンライン上の情報を信じるかどうかもまたそれを見た人の責任に帰せられる(オンライン上の情報は見た人が誤りを見つけて筆者に訂正を促したり、あるいは自分のウェブなどで誤りを指摘したりもできる。だからオンライン上の情報は、ウィキペディアに典型的なように「相互編集メディア」の側面ももつ)。

検索サイト大手のグーグルは、長い間、あらゆる情報をデジタル化して提供することを自らの使命にしてきた。そこにはアルゴリズムによるある種のバイアスがかかるとしても、建前としては、あらゆる情報を平等に提供しようとしてきた。言いかたを換えると、「無編集メディア」たらんとしてきたわけである。

検索サイトはいま自らの責任で情報を管理しようとし始めており、それは一方では情報の検閲ではあるが、一方ではメディアとしての責任を取る決断とも言えよう。検索サイトは客観的な情報の提供サイトから、一定のスクリーンをかけて情報を提供する「編集メディア」へと移行しつつある、あるいは移行させられつつある。

その際大切なのは、ヤフーがやり、グーグルもやっているように、その基準を明確にすることである。これが不明確だと恣意的な取捨選択が行われ、政治的に利用される危険も大きい(ヤフーの新基準では、グーグルサジェストと同じようなキーワードを書き込む窓のリンク表示の削除を重点にし、ウェブへのリンク自体の削除は、裁判所の判決を前提にするなど慎重な対応をしているようである)。

今回のニュースの論評の中に、「1つの検索サイトだけが有害な情報を削除しても、他の検索サイトで見られるのでは意味がない。統一した基準が必要である」という意見があったけれど、こういう動きはむしろ危険だとも言えよう。検索サイトを編集メディアと考えれば、むしろその基準は多様である方が望ましい。