今年12月、アジアに人口6億人の巨大市場が誕生する。ASEAN(東南アジア諸国連合)の10カ国による「ASEAN経済共同体」が発足するからだ。ASEANが統合し、1つの経済共同体となれば、その隣国には中国やインド、さらに海を隔てれば、日本やオーストラリアが存在する。周辺各国との貿易も活発化し、巨大な市場が形成される。これを陰で支えてきたのが、東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)である。同センターが設立された2008年から事務総長を務める西村英俊氏に、この間の動きと意義を聞いた。

戦争を避ける知恵としての「ASEAN」

――東南アジア各国の結束が加速している。

東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)の西村英俊・事務総長。

【西村】ASEANは1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、そしてタイの5カ国で発足している。その当時、東南アジアをめぐる政治は非常に緊張しており、一触即発といってもいい状況が続いていた。戦争を避けるために話し合いを持つ。それが各国指導者の間で最も必要とされていたことだった。それがいま、地域の経済成長を謳えるまでになっている。比べてみると、隔世の感がある。

当初は、外相レベルの顔合わせからスタートし、信頼醸成を確実なものにしていくことに力点が置かれた。いくつかの分野に分けた委員会が100を超える政策提言をするといった地道な努力を重ねた結果、76年2月にインドネシアのバリで第1回のASEANサミットが開かれている。ここで共同声明が採択されているが、実はそこに「ASEAN共同体」という言葉が登場する。これに先立ち、75年には外相会議と並んで経済大臣会合も設置された。

――首脳会談まで10年の歳月が流れているが、その間は順調だったのか?

【西村】いや、73年に勃発したオイルショックは、東南アジア各国も混乱に陥れた。エネルギー危機は、そのまま食糧危機にもつながることから、経済閣僚レベルで対応すべき課題が列挙された。すなわち、ASEANの競争力を高めていくための大規模な工業化、域内貿易拡大といった取り組みだ。これは「集団的輸入代替重化学工業化戦略」と呼ばれた。しかし、外資に対する制限を加えたこともあり、この政策はうまくいかず、ASEANにおけるいわゆる“空白の10年”に入っていく。

この間、日本は2度の石油危機を乗り切って、高度経済成長を維持した。「Japan as No.1」といわれたのもこの頃だ。一方、中国も文化大革命の失敗を糧とし、トウ小平体制下での「改革・開放」へと舵を切る。さらにインドも、インディラ・ガンジー首相が80年までの社会主義下の計画経済と訣別し、民間企業の発展と規制緩和を行った。とはいえ、中国、インドとも社会主義の負の遺産は依然として根強く残っていた。