狭い国家の枠にとらわれるな
国家主権を国民が持っているという国民国家の概念は19世紀に始まったものだが、それは必ずしも宗教的、言語的、民族的な自立を尊重したものではなかった。日本の市町村合併と同じで“規模”が重視された時代に無理やりくっつけたようなところがある。
従って優れたリーダー、はたまた独裁的なリーダーがいる時代はどうにか治まっていても、重石がなくなったときには原始的な単位に戻ろうという力学が働きやすい。
19世紀的な国民国家の枠組みが崩れていくことを、私は『ボーダレス・ワールド(国境なき世界)』(1990年刊)という本の中で「物理的必然」と論じた。国家は国境という地理的ボーダーで規定されている。しかし交通網が発達し、金融が発達し、通信が発達していくと人、モノ、カネ、情報が軽々と国境を飛び越えるようになる。従って企業は国境を越えてオペレーションできるようにしておかないと、狭い国家の枠の中にとどまっていたら死に絶えるしかない――。というのが私のボーダレス・ワールドの基本概念だ。
ボーダレス・ワールドにおいてはケインズの資本論などまったく通用しない。たとえばケインズ経済学では金利を上げるとお金を借りようとする人が少なくなるので、市中のお金の量が減ってインフレが抑えられることになっている。しかし、現代では金利を上げると世界中からお金が集まり、インフレが進行するという逆転現象が起きている。
反対に金利を下げれば需要が喚起されて景気が良くなるという考え方も通用しない。今や金利引き下げもマネーサプライの増加も景気刺激効果はほとんどないのだ。
今日起きている経済現象をケインズ経済学では説明しきれない。なぜならケインズ経済学は国境によって閉ざされた一国の経済を前提にしているからだ。ボーダレス・ワールドの中では、それが逆さまになることも珍しくない。私はこのことをここ20年以上説き続けているが、多くのエコノミストはこのボーダレス経済論の骨格が理解できない。金利をゼロにした後に打てる手は市中に金をばらまくしかない。アベクロ・バズーカなどが典型的なもので、経済が上向かないのは230兆円の余資を持つ法人も1600兆円の金融資産を持つ個人も金を使おうとしないからだ。つまり金はもともと市場にあふれかえっており、それを使おうという気持ちにならない心理、すなわち「低・欲望社会」の問題を解決しない限りいくらマクロ指標をいじってみても景気は上向かない。
ボーダレス経済をさらに加速しているのが、ネットで瞬時にやり取りするサイバー経済であり、デリバティブやヘッジングなどの金融テクニックを駆使して自己資金の何倍ものM&Aを仕掛けるマルチプル(倍率)経済である。
ボーダレス経済、サイバー経済、マルチプル経済という新しい経済世界が広がっていくほどに、実体経済のボーダーである国境の持つ意味がなくなってくるのだ。