今後のネタを仕入れるため大学院に進学
その後、東大卒の社員と、1歳上の社員(青山学院大卒)と3人で広告代理店を興すことにした。辞めるときは、3人が4カ月ごとの期間を置いて、辞表を出した。お世話になった社長を刺激しないためだ。
1990年に知人である商社の社長から出資を受け、赤坂のワンルームマンションで設立した。3人でスタートし、部下はいない。社長になったクロイワさんは得意のテレアポで、契約を受注し続けた。業績を急上昇させ、2年目には原宿の「一等地」にオフィスを移転した。
「東大君は相変わらず、いい仕事をしていたし、1つ上の先輩も根性持ちで、大きな契約を受注していました。2人は、大物でしたね。だけど、3人が進んでいく方向が違うようになってきたのです。それで、私は離れました」
1994年、1人で創業したのが、ヘルメスだった。当初は、手元にさしたる資金がない。早いうちに現金として受け取ることができるサービスをしようとした。
思いついたのが、パソコンの指導。多くの会社にパソコンが急速に浸透し始めた頃だった。5社ほどから契約を受注できたが、安定した収入源がない。
そこで、95年からは大学受験予備校で英語を教え始めた。証券会社や広告代理店の営業で身に付けた「笑いを誘うトーク」で受験生から人気を得る。指導者がほとんどいなかった小論文講座も担当し、早いうちに、週20コマほどを教えるようになる。1コマ(90分)の講師料は、2万5千円。年収はほかの仕事の収入を含めると、1000万円を軽く超えた。
2001年、39歳のとき、予備校のコマ数を大幅に減らし、母校・一橋大学の大学院(商学研究科経営学修士コース)に進学する。
「英語や小論文を教えることに喜びを感じていましたが、今後のネタを仕入れたいと思ったのです。そうでないと、先細りしかねないと感じました。大学院では、十分すぎるほどの効果がありましたね」
03年に修了し、04年にキャリア・コンサルタントの資格をとる。新入社員や管理職の研修のプランを練り、講演を主催する会社に登録すると、会社や経済団体、役所、病院などから講演、セミナー、研修の依頼が相次ぐ。会場では、証券会社や予備校講師で培った「笑いを誘うトーク」がヒットする。