安くて良い大衆車「ファミリア」の大ヒット
山崎さんは、1938年(昭和13年)に広島高等工業学校の機械工学科を卒業後、オイルショック後の77年、故・松田耕平社長(当時)からバトンを受けて創業家以外で初めて生え抜き社長として就任し、経営の再建に奔走した。80年には「安くて良い大衆車」といわれた歴史に残る5代目の『ファミリア』が大ヒット、記念すべき第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。この日、祭壇の横にはその赤いファミリアも展示され、当時を懐かしむ参列者も多かったようだ。
また、社長時代にはメインバンクの旧住友銀行が仲介役で米フォード・モーターと資本提携を結び、社名も現在のマツダに変更。84年に社長を退任するまでの7年間はマツダにとっても大きな転換期となり、そのかじ取り役を担った。
また、山崎さんのもう一つの顔は、幼いころから“サッカー少年”だったこともあり、現在Jリーグのサンフレッチェ広島の前身である東洋工業サッカー部を創設、選手として、また初代監督としても大活躍した。
この日「お別れの会」が終了した直後には、1カ月後に開幕するサッカー・ワールドカップのブラジル大会に出場する日本代表23選手の名前がザッケローニ監督から発表された。代表の中には、山崎さんがいわば事実上の“生みの親”でもあるサンフレッチェ広島所属のミッドフィルダー、青山敏弘選手も選ばれた。サッカー好きの山崎さんがブラジル大会を観戦できないのは無念だろうが、きっと天国で後輩の選手たちの活躍を祈っていることだろう。