毎度50銭銀貨を置いていく“名編集長”の客
その店で千代が出会ったのが、『中央公論』の主幹・滝田樗陰である。ドラマでは黒崎大三郎(遠藤憲一)として登場する。
のちに千代の才能を評価する人物だが、この時点では、そんな気配はまったくない。千代にとっては、毎日やってくる、豪快すぎる客にすぎない。
『生きて行く私』によれば、毎日必ず猛スピードで食事を平らげ、ビールを飲み干すと、50銭銀貨を置いて去っていく。名編集長というより、フードファイターである。
千代は、この客が名物編集長だとは知らなかったと書いている。だが、デビュー後の千代は、滝田に原稿を送っている。名刺くらいはもらっていたのだと思う。というか、このタイプの編集者は、世間から「美人だ」と評判の給仕がいれば「俺のこと知ってる?」と名刺を渡していても不思議ではない。
ともあれ、千代の関心は、肩書よりチップのほうにあった。
50銭といえば、さっきの女優募集の日給80銭の6割強。それを、来るたびにポンと置いていく。18日間毎日来たなら、チップだけで9円になる計算だ。
“何者でもなかった人”の転機に
『私の文学的回想記』では、かなり露骨に書いている。
目的は、給仕ではない。チップの回収である。本人が言い切っている。
しかも、袷の裏地を剥がして単衣に仕立て直し、衣替えを自力で、強引に済ませて出勤している。滝田の置いていく銀貨は、千代にとって生活費そのものだったのだ。
「世話になった大編集者」ではなく、「銀貨をくれる上客」。そのチップ目当ての給仕が、のちにこの客に原稿を拾われる。人生、何が転機になるか、わかったものではない。
こうして並べてみると、東京に出てきた千代は、とにかく「何者かになりたい」人である。
女優になりたい。広告が出れば飛びつく。文士の集まる店では、チップも欲しいが、有名人も近くで見ていたい。ドラマの書店「ぶくぶく堂」が有名人の遭遇率の高い場所なら、史実の千代も、有名人のそばにいる。ただし、そこにいるだけで、まだ何者でもない。
腰巻きのまま蝶々になり、チップ目当てで給仕に立ち、憧れと貧乏を同時に抱えて走り回る。朝ドラが脱臭した「健気な女性」の前に、史実にはこういう、必死で俗っぽい一時期があった。
だが、この何者でもなかった娘が、やがて懸賞小説で一等を取り、チップをくれた客の雑誌に作品を載せる。何が転機になるかは、本当にわからない。
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