――北朝鮮側は「力道山の弟子」という言葉を聞いて、どう反応しましたか?

【猪木】向こうの反響は大きかったです。そもそも今まで政治家をはじめ、ほとんど日本人が行っていなかった国ですから。今思うと、あちらは儒教の国なので師匠に対する私の想いという部分が今日にずっと続いていて、それが国と国とか政治家の域を超えた信頼関係になり、本当の友人として迎えてくれている気がします。

北朝鮮は日本と常に敵対している印象があるかもしれませんが、2020年のオリンピックの候補地選びで、北朝鮮は東京に1票入れているのです。

北朝鮮のIOC委員である張雄(チャンウン)さんと、私は長い付き合いです。彼は、もともとバスケットボールの選手で、背も高い。75歳だったから私より年齢は少し上になりますね。英語も喋りますし、私の英語でも通訳を入れないで簡単な話くらいならできますから。信頼が厚い方で、日本の五輪委員会の人たちとも懇意にしているようです。

12年11月に私が訪朝したときに、「東京に1票入れますよ」と北朝鮮は言って、10票ぐらいなら、アフリカの友好関係国をまとめられると言ってくれました。北朝鮮はアフリカ諸国に対して相当な数の労働者派遣をしているのですよ。それで日本へ投票してくれたのが、10票なのか、新聞によっては3票というところもありましたが、効果はあったと思います。少なくとも北朝鮮が1票入れたのは間違いない。

――猪木議員、あなたは湾岸戦争のときにイラクから日本人の人質を奪還したことがありますね。当時の日本政府は完全にさじを投げていた事件をどうやって解決したのですか。

【猪木】ちょうど議員になってすぐの時期に、キューバでカストロ議長と「(イラクについて)平和的解決をしたい」と話をしました。日本に帰ってすぐにヨルダン経由でイラクに入った。

イラクの首都バグダッドに入ったら、報道陣はみな私が泊まるホテルに集められていたのです。当時まだ現役のレスラーであったので、ランニングだけはしないといけなかった。向こうの案内人に「走るのは自由だが、撃たれても責任持ちませんよ」とか言われましたが、無視して構わず走っていたら、午後からインタビューが殺到してテレビなんかに全部流れていくんですよね。すると向こうの要人が走っている私を見るために沿道に出てくれるようになって、翌日からイラクの議長も出てきました。そして走ったら車のクラクションをピッピと鳴らしてくれたりして、「猪木よく来たな!」と温かい歓迎を受けた。

そんなことがあってウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)に会えた。人質の家族とイラクへ乗り込み、現地でプロレスイベントを開催するなど、友好関係を築くことに腐心しました。粘り強く、諦めることなくイラクの要人や国民に人質解放を訴え続けた。その努力が、外務省でさえさじを投げていた人質奪還につながったのです。