本能寺の変で死んだのは長男だけではない
織田研究の谷口克広氏によれば、出生順も巷間伝わっている順番でない可能性が高いという。ただし、ここでは煩雑さを除くため、『寛政重修諸家譜』の出生順で述べていく。
信長の五男・津田信房(一般には武田勝長)は、はじめ美濃岩村城の遠山景任の養子となったが、元亀3(1572)年11月に武田家臣・秋山虎繁が岩村城を陥落させ、信房を人質として甲斐に送還する。天正7(1579)年に武田勝頼は外交方針を転換。人質・信房を織田家に返還することで局面の打開を図った。信房は織田家に戻され、犬山城主・池田恒興の婿養子となった。
当時、恒興は摂津で荒木残党の掃討作戦を主導、鎮圧後に摂津を与えられていた。信長は恒興を摂津に移し、信房を犬山城主に据えることで犬山城を織田家の直轄地として回収したのだ。天正9年11月、信房は安土に赴き、父・信長と9年ぶりに再会したが、翌天正10年6月、本能寺の変で兄・信忠とともに二条城で討ち死にした。
秀吉の養子になった四男の死
信長の四男・羽柴於次秀勝は、天正5(1577)年頃に羽柴秀吉の養子になった。当時、秀吉は姫路城に入って中国経略を進めていたが、秀勝は近江長浜城にしばらく留まっていたらしい。つまり、信長は、近江長浜城主の秀吉を播磨に移し、秀勝を秀吉の養子にして長浜城主に据えたのであろう。遠方に派遣する有力部将に、信長の子どもを養子に送り込んで、居城の留守をさせる(その後に回収させる)。この構図は池田恒興と信房にも見た事例である。
秀吉が三法師(信忠の嫡子・秀信)を推したため、すっかり忘れ去られているが、清須会議で柴田勝家が一番警戒したのは、秀勝を信長の後継者に推すことだったのではないか。しかし、秀吉は秀勝を主君の遺児として遇していないように思える。清須会議の後、柴田勝家が長浜を通って北ノ庄城に戻ることに警戒したため、秀吉は秀勝を勝家の人質として差し出しており、将棋の駒のように使っているのだ。秀勝は天正13年に死去。享年わずか18(数え年)だった。


