「ピッチャーが弱点」のチームを終わらせたい

一方、僕がピッチャー出身である以上、投手陣の整備は避けて通れない最優先課題だった。長い間、「スワローズはピッチャーが弱点」と言われ続けてきた歴史を、自分の手で終わらせたかった。

新しく招いた斎藤隆、そして古くから知る石井弘寿とともに、投手陣を根底から作り直す。野手に関しては、宮出や杉村さんといった信頼できるスタッフにメニューから何から任せたが、ピッチャーに関しては、僕自身も深く入り込んで再建に取り組む覚悟だった。

ストップウォッチを持つ野球のコーチ
写真=iStock.com/RBFried
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キャンプのメニュー一つとっても、これまでと同じでは意味がない。どうすれば選手が最高の状態でシーズンに入れるか、コーチ陣と徹底的に意見を戦わせた。

現状を否定し、一から作り上げることは、これまでの流れを断ち切る怖さを伴う。しかし、ボロボロの柱で戦うよりは、まっさらな土地に新しい柱を一本ずつ立てていく方が、未来への希望がある。

20年という年は、僕にとってもスワローズにとっても、泥臭く「基礎工事」をやり直す、長く険しい旅の始まりだった。

カツノリから「監督は今朝、亡くなりました」

20年2月11日、沖縄・浦添――。キャンプ中の早朝、僕のスマートフォンが震えた。メッセージの送り主は、カツノリ(野村克則)である。そこには、恩師の旅立ちを知らせる短い言葉が綴られていた。

「監督は今朝、亡くなりました」

急ぎ東京へ戻り、最期のお姿に対面した。スワローズのユニフォームを身に纏った監督は、まるで今にも目を開けて野球の話を始めそうな、そんな穏やかな表情をしていた。

晩年の野村さんとは、お会いするたびに交わす「お約束」があった。

「お前を抑えにしてすまなかったな」「いえいえ、感謝しています」

その繰り返しが、僕たちの信頼の証だった。19年秋、監督就任の報告に行った際、野村さんはいつもの「ノムさん節」で僕を迎えてくれた。

「お前が監督か。他におらんのか?」「えぇ、いないようです」

そう返すと、監督は少し嬉しそうに笑った気がした。口には出さなかったけれど、教え子が古巣の指揮を執ることを、誰よりも楽しみにしていたはずだ。そのシーズンを見届けてもらえなかったことだけが、残念でならない。

このとき、監督は僕に最後のアドバイスをくれた。

「最下位のチームを引き受けたのだから、失うものは何もない。だから、気楽にやりなさい。弱いチームを強くしていくのはエネルギーがいることだけど、すごく楽しいぞ」

これが、恩師から僕に贈られた「最期の言葉」となった。

野村克也とつば九郎
野村克也とつば九郎(写真=shi.k/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons