“最後の海軍大将”と呼ばれた男
警告の主は井上成美、当時の海軍航空本部長である。
国立公文書館アジア歴史資料センター(JACAR)が公開する「海軍辞令公報」(1940年10月1日)には、「支那方面艦隊参謀長海軍中将 井上成美 補海軍航空本部長」とある。阿川弘之『井上成美』(新潮社)で、「最後の海軍大将」「帝国海軍きっての知性」と評される人物だ。
対米戦の危険を説いた軍人といえば、山本五十六が有名だ。だが山本は1939年に連合艦隊司令長官へ移り、開戦前夜には政策を決める海軍中央ではなく、作戦指揮を担う立場にあった。日中戦争の拡大に反対した陸軍の石原莞爾も、1941年には予備役となっている。
開戦前夜の海軍中枢で、戦備を査定し、数字をもとに異を唱え続けた代表格が井上だった。
勝ち方ではなく「続け方」を問うた
井上の問題意識を最も直接に示すのが、冒頭の「新軍備計画論」である。
その「日米戦争の形態」の章には、「日本ガ米国ヲ破リ彼ヲ屈伏スル事ハ不可能ナリ」とある。井上が問うたのは、艦隊決戦に勝てるかどうかではなかった。その勝利によって米国を屈服させられるのか、という戦争全体の見通しだった。
続く「帝国の海軍軍備整備の要点」の章には、速戦即決を目指す艦隊決戦兵力についてさえ「其ノ整備スラ思フニ任セズ」とあり、「海上補給線ノ確保ニ必要ナル兵力」の整備を求めている。重視したのは、初戦の戦果より、資源と兵器を運び続けながら戦争を続けられるかどうかだった。
「戦争をしてはならない」と海相に直訴
井上の懸念は半年後、具体的な数字として示された。
1941年7月17日付の内部文書「海軍航空戦備の現状」によると、航空用大型爆弾、九一式魚雷、20ミリ機銃など、列挙された兵器の充足率は10~30%にとどまっていた。これは海軍航空兵力全体ではなく、文書が列挙した兵器に限った数字である。
同文書の「生産力の現状及拡充予想」には、1942年度海軍用鋼材の所要145万トンに対し、取得見込みは約110万トンとある。約35万トン、所要量の約24%が不足する計算だった。
井上の警告は漠然とした悲観論ではなく、兵器、生産力、資材の査定に基づいていた。
数字を突きつけた先は、海軍首脳だ。伝記『井上成美』(井上成美伝記刊行会、1982年、310〜311頁)は、井上が1941年7月22日、及川古志郎海相、永野修身軍令部総長らに戦備状況を説明し、「戦争をしてはならない」と訴えたと記す。
約40年後に刊行された伝記であり、1941年の本人文書とは証拠の性格が異なる。それでも対米戦の見方は「新軍備計画論」と一致している。
反対派の3人は中枢から外された
では、井上の警告は開戦の決定を変えられなかったのか。その背景の一つに人事がある。
1937年、井上は海軍省軍務局長に就いた。米内光政海相、山本五十六次官とともに、日独伊の軍事同盟構想に反対した3人である。井上は戦後、「海軍が最後まで譲らなかったのは、自動的参戦はいやだという一点にありき」と証言している(新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録――太平洋戦争開戦の経緯』毎日新聞社、1976年)。
だが山本は1939年8月に連合艦隊へ移り、井上も同年10月に支那方面艦隊参謀長へ転出した。米内内閣も1940年7月に総辞職する。三国同盟が調印されたのはその2カ月後だった。
一連の異動が排除計画だったことを示す一次資料は確認できない。しかし結果として、3人は政策決定の中枢から離れ、異論を一つの政策へまとめる力が弱まった。

