海相辞職という「伝家の宝刀」
海軍省が戦備不足を把握しても、それだけで作戦を止められるわけではなかった。
国立公文書館が公開する「海軍省軍令部業務互渉規程」の写しは、海軍大臣と軍令部総長が、それぞれ何を起案し、何を協議するかを区分している。防衛研究所「史料紹介コーナー」は、この1933年の改定で海軍大臣の権限が縮小し、軍令部主導の業務が増えたと解説する。
海軍省側の戦備査定を作戦中止へつなげるには、省部を越えた合意が必要だったのである。
『海軍戦争検討会議記録――太平洋戦争開戦の経緯』178頁の第二回第二次特別座談会(1946年1月22日)には、井上の「内閣を引けば可なり。伝家の宝刀なり」という発言がある。
海相が辞職して後任を出さなければ内閣を倒し得る。だがそれは、陸海軍の一致を崩し、内閣総辞職を招く非常手段だった。決定的な対立を避けようとする「空気」のなかで、容易に抜ける刀ではなかった。
しかも海相辞職は個人の進退に頼る手段であり、戦備の数字に応じて開戦方針を見直す制度ではなかった。
戦備の数字は「中止条件」にならなかった
最大の問題は、兵器の充足率や資材の見込みが一定水準を下回れば開戦方針を再審査する、という決まりがなかったことだ。
1941年9月6日の御前会議決定「帝国国策遂行要領」は、米・英・蘭との戦争も辞さない方針の下で準備を進めると定めた。12月1日の御前会議は「帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」と決定する(アジア歴史センター「37.対米英蘭開戦ノ件(御前会議決定書)」。
もっとも開戦を中止する条件がなかったわけではない。11月5日の御前会議で改定された「帝国国策遂行要領」は、対米交渉が12月1日午前0時までに成功すれば武力発動を中止するとしていた。
井上がどれほど不足を具体的に示しても、その数字を開戦方針の見直しに結びつける仕組みがなかったのである。

